メモ帳用ブログ

色々な雑記。


翔太の寿司で、父親の乗る船に細工をした神亀寿司のオッサンを将太が許したのはわかる。将太の実家である巴寿司の宿敵であり、地元で莫大な権力を持つ笹寿司から神亀寿司のオッサンは圧力を受けていた。こういう場合、神亀寿司のオッサンは許して、なおさらに打倒笹寿司に燃えるのが定番の展開だ。
将太が最終的に笹寿司を許したのも、まあ将太はそういう人間だからわからなくもない。でもそれはそれとして笹寿司には法の裁きを受けさせた方が良かったんじゃとは思う。ただそうすると、笹寿司のオッサンや、笹寿司に脅されて一時巴寿司との取り引きから手を切っていた鶴丸たちも何らかの処分を受けることは必至だろう。となると、漫画としては何もかもなあなあにするのが事態を一番丸く収める方法になるのか。まあ漫画だからね。

強権的で「欧州最後の独裁者」と呼ばれるルカシェンコ氏は7月29日、「どの国よりもスポーツに資金をつぎ込んでいるのに」と不満を爆発させた。ベラルーシの選手に関し、アフリカなどの選手と違って「飢えていない」と決め付け、ハングリー精神が足りないと持論を展開した。
 「(外国の選手は)五輪で勝てば何でも手に入るが、負ければパンを探し回らなければならないことを知っている」と言いたい放題だ。

権力者がこういうことを言う国に自分は住みたくないずら。設計主義的合理主義の嫌な面がよく出ている。

鋼の錬金術師の旧アニメはオリジナルパートも多かったけど総合的には好きな方だ。でも原作や新アニメで旧アニメのオリジナルパートほど際どい表現をしてないからといって、原作や新アニメのほうが旧アニメより作品として価値がないと言われたら反論したい。世界観にも作品としての均整の取れたデフォルメというものがあって、ただフォトリアル風にすればいいというのではない。やや暗めのスタート地点から徐々に明るい方向に進んだのが原作・新アニメで、徐々により暗い方向に進んだのが旧アニメだ。
作品の世界観のデフォルメといえば、漫画やアニメだとよくあるような女戦士が男戦士と同じくらいいる世界で、女キャラがしょっちゅう性被害にあってると、一気にバカみたいな世界になる。性犯罪がしょっちゅう起こるような治安の悪い世界なら、女はリアル中世並みに家や地元に縛られるのが現実的だ。江戸時代の日本で女だけのグループがお参り旅行に行けたのも、それだけ治安が良かったからだ。女が男と同じくらい強いファンタジー作品なら、性被害がしょっちゅう発生するくらい治安が悪いとすると、男を殺したり餌食にしたりするために生きているような女もゴロゴロいないと不自然になる。
お色気が理屈に優先することを開き直っているような馬鹿作品なら世界観に文句のつけようはない。でも変に利行ぶろうとしている作品だと逆に引っかかることはよくある。

鬼滅の刃は炭治郎と無惨の初対面の場面だけで、詳しい説明はなくても、無惨が人間の母娘を騙して家に入り込んでいると伝わる。こういうのが正しい行間だと思う。それがミスリードで、実は心から家族になっていたとか、実は鬼と人間が子供を作ると人間の子供が生まれてあの娘は無惨の実子とかの真相が後に明かされるパターンもあるけど、鬼滅はそのパターンじゃない。無惨もそういうキャラじゃない。このあとも複数の容姿を使い分けて複数の家に入り込み、場合によってはその家の人間を殺したことが描写される。あの母娘の元の旦那が無惨に暗殺されていたことも、公式ファンブックで補足されている。

推理ものにおける善人キャラのような、普通に考えれば怪しくないはずなんだけど、その裏をかく話が増えすぎて逆に善人キャラ=怪しいというイメージが定着してしまって、またその逆で素直にいい人のままの善人キャラが増えているような属性は、どう捉えるのが定番と考えればいいのか。
あと普通の作品と違って主人公が鬼のようにモテることが期待されている作品だと、異性キャラに恋人がいる→主人公が寝撮るフラグ、異性キャラが主人公に冷たくする→実は主人公のことが既に好きなツンデレフラグ、みたいに、普通の展開と裏をかいた展開が逆転した定番って結構あるな。自分の知っている定番の展開が来ることを期待して読むと、結論までの積み重ねを逆に解釈してしまうことは珍しくない。

読解力って便利な言葉だから何事においても乱用されがちだ。国語の点数のおかげでいい学校に行けた人間としては、読解力とはありもしない内容を捏造することではないということは確認しておく必要はある。文章にしなくても前提となる情報から確実に導き出せる結論というものはある。でも国語の選択肢問題だと深読みしすぎで不正解の選択肢が入っていることはザラだ。
文学の論文ならともかく、国語の問題で正解が決められないような問題文があったら、作った側が教育者失格だ。ちゃんとした国語の問題で点数が低い人間に文章読解力はない。

ジブリ高畑勲監督・宮崎駿監督・鈴木敏夫プロデューサーのように、芸術・エンタメ・金儲けのバランスが取れている体制は理想的だ。でも極小コミュニティというか、限りなくプライベートに近い関係でしか成立しないから企業としてのジブリは短命だった。企業としてこういうバランスを保つ方法はあるんだろうか。漫画・小説とかの出版系はアニメ・ゲームほど予算を気にしなくていいからそこまで神経質にならなくていいんだが。