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色々な雑記。

世界のスケール感

SNSが発展して世界を広く感じるようになったという人と世界を狭く感じるようになったという人がいる。自分は狭く感じるようになった派。なんでもゼロ距離でスピーディーだと過程でなく結果の量でしかスケール感を感じられなくなる。

こういう、便利になって数字はインフレしているのに世界が狭く感じる、みたいなのは創作の世界だとSFやファンタジーでよく見かける。宇宙規模の戦争をしているはずなのに人間関係がせいぜい町内会の小競り合いレベルとか、主人公が一般人からその世界の神にまで成り上がったのに人間関係がせいぜい町内会の小競り合いレベルとか。雑な世界観の作品で現実と比べて成功のスケール感を盛ろうとすると結果の数字をひたすら天文学的にインフレさせるしかなくなり、現実味はなおさらに薄れていく。ただ元は悪口だったスペースオペラが今は立派なジャンルのひとつとして認知されているように、割り切ったエンタメは気軽に楽しめる魅力がある。世界観にリアルさがなくても描写に力があれば作品として成立しうるし、歪な味わいにマニアックなファンが付いたりもする。舞台が宇宙規模で、主人公が人類の命運を左右できる立場になって、なのにドラマはせいぜい思春期の葛藤レベルのセカイ系とか。それに、現実に則すると扱いづらいデリケートなテーマやモチーフを扱いやすくするため、SFやファンタジーでリアルさをあえて薄れさせる場合も多い。たとえば種族の違いによる思想や文化の違いというのはSFやファンタジーで定番のモチーフだ。

話のスケール感を出したいのなら、むしろ、何かと不便な世界観のほうが向いていたりする。実はポストアポカリプス系のSFで、ひとつの村から村へ移動するのにも大変な労力と危険が伴う風の谷のナウシカとか。あの世界観で行われる漫画版のトルメキアと土鬼の戦争は、規模的にはせいぜいユーラシア大陸の一地方だろうけども壮大なスケール感に圧倒された。複雑な人間模様のもつれも魅力的だ。指輪物語だって、主人公のフロドたちがもしワープ魔法のようなものを使いこなせていたらあのスケール感は出ないだろう。創作での世界の広さの実感は、登場人物たちが世界を移動する過程で味わった、あるいは味わうだろう困難の実感と一致する。