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セカイ系とは?

最近我ながらずさんにセカイ系セカイ系書いてしまっているので少し真面目に考えてみた。
まずセカイ系は自然発生的に生まれた言葉らしく、明確な定義が存在しない。ツンデレ中二病高二病みたいなものだ。オタク用語あるある。その曖昧で広範な定義の中で、自分がまさにそうだと思っている部分はセカイ系の中でも「きみとぼく系」と呼ばれている部分に近いみたいだ。wikipediaの丸写しになるけどつまりは「ぼくときみを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」。ブギーポップシリーズのような現代異能ものなどもセカイ系に含める定義もあるけど、自分にはしっくりこない。主人公の「思春期的な悩み」が世界の危機と直結しているという点が自分には最重要だ。現代異能ものがセカイ系なら三部以降のジョジョシリーズも含まれることになるけど、やはりしっくりこない。第六部は最後の展開だけ見ればセカイ系風にしろテイストが全く違う。
このセカイ系の主人公が抱く「思春期的な悩み」の正体が何なのかというと、自意識の成長と社会的な自立力のなさから生まれる閉塞感や不安であり、自分は世界から疎外されているという世界に対する漠然とした被害者意識だ。それでいて自分自身が感じるほどに自分が世界の中で不幸な方ではないと理解してもいる。大手を振って被害者面できないことにむしろ鬱屈している。そんな主人公が世界的にも不幸で被害者だと認められるようなヒロインと仲を深めることで物語が動く。きみの不幸にぼくが共感し、不幸が軽減されるというより不幸が深まり、ぼくたちは不幸だと大声で言うための大義名分を得る。世界に対する被害者意識の甘美さにひたりこみながら、最終的には主人公が世界とヒロインの運命に対して意見表明をして終幕となる。主人公は世界に対する「当然の仕返し」として世界を滅ぼすか、そんな世界でも「許してやる」か。セカイ系の源流といわれる新世紀エヴァンゲリオンの旧シリーズでは、シンジがサードインパクトで一度は滅んだ世界や他人を認め、他人のいる気持ち悪さと痛みを再び味わうことで一応の終幕になった。
そしてエヴァの影響下で生まれたセカイ系ゼロ年代にブームとなり、ゼロ年代のうちに下火になったとされる。
リメイク作であるヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズでは、1作目の序と2作目の破では主人公であるシンジたちを精神的に痛めつけるような描写はかなり減らされ、セカイ系の匂いもほぼ脱臭されていた。だけど3作目のQでは、実は破のラストでシンジが「世界とヒロインを天秤にかけて世界を滅ぼす」というセカイ系的な選択をしかけてしまっていたことが明かされる。一転してシンジは世界に対する加害者になる。「セカイに引き裂かれそうになるぼくときみ」を被害者として扱ってきたセカイ系そのものに対する構図の逆転ともいえるはずだ。
去年、10年代最後の年である2019年に公開された『天気の子』は、若者を中心に大ヒットすると同時に、セカイ系的なテイストを持っていることでいい年をしたオタクの間でも話題になった。確かに「ぼくときみを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群」に近い作品構造を持つ映画だ。新海監督はセカイ系の元祖の1つである『ほしのこえ』の監督でもある。過去には多数の巫女がいたという示唆や、影響の範囲が東京に限られることで、セカイ系の批判の的になった誇大妄想的な色彩が一応は弱められている。周りの大人たちも帆高は世界を変えなかったとなだめる。しかし主人公である帆高は自分は世界の形を変えてしまったと叫ぶ。このときに帆高は自分を世界に対する何者だと考えてこの言葉を言ったのか。

新海誠監督のインタビューによれば、監督はセカイ系に自己言及するために『天気の子』を制作したのではなく、素直な問題意識に基づいて制作した結果、セカイ系に自己言及したと言われるような作品になったのだそうだ。つまり帆高の世界に対する自意識は監督の世界に対する自意識を反映しているのかもしれない。そして帆高の世界に対する自意識や、そんな帆高に対して再会後の圭介が向けたまなざし、それは今を生きる大人たちが持っているべきものだとも、『天気の子』は伝えようとしているのかもしれない。