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ネタバレ補足2

日月同錯ネタバレ補足2
屍者の13月はただでさえ序盤は説明とグロが多くてストーリーの動きが少ないのに、日本語版だと更新速度が半分で余計にじれったい。
日月同錯の黒山村エピソードは最終話のタイトルが千年同錯。だから526年も1906年もどちらも間違っているということで、この間違いを踏まえて光が成長するための話という位置づけ。でも300人の死を主人公の序盤の踏み台に使うんなら、もっと丁寧な話運びをしてほしかった。おちゃらけたノリとエグい露悪とお涙頂戴パートのミスマッチさに乗り切れない。
虐殺がエピソードの掴みじゃなくて結末なのは楽しくない。割り切って露悪ショーを楽しむにしても演出はやたらエモーショナル。かといって完成度の高さに圧倒されるわけでもない。光も姜明子もこのエピソードでは傍観者だったと明言されているんだけど、そういう話を第2エピソードに持って来られても面食らう。
自分は面白い話なら悪玉も好きになるけど、つまらない話なら善玉も好きになれない。
このエピソードの終わり方を見るに、日月同錯はドライなブラックエンタメでなく感動ヒューマンドラマを目指しているらしい。だとすると、このエピソードで細部でなく構造として嫌な部分が2つある。1つめが村人を殺し合わせた三眼の邪悪さがこのエピソード中で後半はろくに非難されなくなること。本人としては負けたと思いつつも、なんだかんだまんざらでもない退場で、やったことを考えれば事実上の勝ち逃げだ。2つめが三眼の邪悪さが棚上げにされたせいで村人の邪悪さのみが話の焦点にされてしまったこと。三眼を招き入れた村人(たぶん村長?)は三眼と同等の邪悪でいいし、光が小小に敵を討たせたてやりたくなる気持ちもわかる。だけど、それ以外の見て見ぬふりをした村人まで含めて、主人公が命を救うのをためらうほど醜悪な存在として扱われたことには疑問がある。光が有罪と無罪は判別できないと思い直して助けようとしたことを成長として描いているけど、300人の虐殺をそのダシにした感が強いのが悪印象。
このエピソードではたぶん人間の内ゲバの醜さを描くパニックホラーの舞台装置として屍者を扱いたかったんだと思う。でもそういう作品の化物は、ゾンビだったり虫型だったりクリーチャーだったり、意思疎通ができない存在にするのが普通だ。化物に人格があるなら、他人を内ゲバするまで追い込んだそいつが一番邪悪だと感じてしまい、話の流れに乗れなくなるからだ。一部の人間が化物を利用している場合だって、利用し合っているなら共犯だ。一部以外の人間は被害者になる。意思疎通ができて人間を害する化物を悪としないなら、せめて価値観が人間とは全く違う生物であるとか、生まれながらの魔族であるとかの言い訳は必要だろう。
でも三眼は法屍者だから元人間で、人格も保っている。屍者が常屍者の群れだったり、三眼本体は完全に無関与で自動操縦の傀儡のみのせいで村人が内ゲバを起こしたのなら、この作品の設定でも人間の内ゲバの醜さに集中できたかもしれない。村人の醜さを描きたいなら、元人間の三眼の関与はノイズになる。
無理に三眼をあまり邪悪でないポジションに持っていこうとしたせいで、言動と作中の評価が噛み合っていないキャラになってしまっている。西暦525年の食人事件で元凶の三眼が「原因はたった二つ 村人の嫉妬と蒙昧さだ」といけしゃあしゃあと言うのは、悪役としてはいいキャラかもしれない。でも三眼の罪について、誰かの心中でいいから指摘してほしかったところだ。できればエピソードの終わりに、光には三眼の口車に乗せられてしまったことや小小が口車に乗せられるのを止められなかったことを悔やんで欲しかった。善玉と悪玉は強く対立することで魅力を高め合える。次のエピソード中では光もそこの反省はするんだけど、時系列的にはすぐでも話数としてはかなり後になるからそれまでモヤモヤ感を引きずる。
三眼の存在がいびつなのは、人間を捕食の恐怖で内ゲバに追い込む化物としての役割と、事件の真相を他人事として語る目撃者としての役割の両方を担わされたからだ。西暦525年の事件と西暦1906年の事件で両方の真相の生き証人となれるのは屍者以外にいない。同月令で連絡できる姜明子視点だと事件はまだ起きていない。でもこの真相の解明がエンタメに活かされていたかと言われれば、そうは思えない。
まず作中の人間が謎の存在に気付く前に三眼がベラベラ喋ってしまうので、推理の楽しさはゼロ。
千年続く冤罪の恐ろしさが本題のつもりなら作りが安っぽすぎる。千という年数も、数百の犠牲になった村人の人数も、何もかもがハリボテだ。わざと寓話的なハリボテ感を狙っているにしても、露悪やお涙頂戴パートの生々しい演出と合っていない。まともなエンタメ方面で期待に応えてくれる要素さえあれば、ミスマッチさを楽しむ余地はあったかも。
千年前の罪というふざけた理由で親を生贄にされた白小小が、その罪が冤罪だと知って、復讐で村人を皆殺しにしたくなる気持ちはわかる。でも小小には白大の怒りまで一緒に背負った気になるよりも、千年前の罪なんかに心底呆れ果てる方向に怒って欲しかった気持ちがある。


西暦525年の事件と1906年の事件が正反対の構造になっているのは仕掛けとしては面白い。だけど自分と白大を同一視して凶行に走った白小小の愚かさが増してしまったところがある。
西暦525年の事件は三眼が屍疫を蔓延させて、狂気に走った村人が白大の家族を食い殺してしまった。白大は敵を討とうとしたが返り討ちに合い死んでしまう。亡くなる直前に三眼を見つけて丹を渡す代わりに復讐を頼む。三眼は白大の死体を使って復讐し、伝承の通りなら村人97人が死亡。おそらく村人の誰が殺人に関与して誰が関与しなかったかは正確には特定できないままの復讐だったけど、白大の死後に行われた復讐だから、白大の清廉さは保たれている。
西暦1906年の事件は三眼が漫然と人を食っていたら、近隣の人間の一部から定期的に生贄を捧げる代わりに自分たちの家族は助けてくれるように頼まれ、黒山村から生贄にされた白小小の両親を食べてしまう。白小小も生贄にされかけるが、小小たちが白大の子孫であることに気付いた三眼が真相を話す。小小は三眼から記憶と能力を受け継ぎ、自分が能力の主となるために三眼を自害させる。自分の意思で300人余りの村人のほとんどを殺害するが、生き残った子供に親の敵と罵られ、刺し殺されることを受け入れる。
出来事だけなら1906年もそれなりに因果応報なんだけど、光はひたすら小小に同情的で、村人に対しては醜悪だけど救ってやるべき相手くらいにしか思っていなかった。演出も村人は醜悪で小小は哀れであることを強調する。お涙頂戴の小道具に使っておきながら子どもたちの扱いも雑だ。一応姜明子は光の態度には否定的だけど、同時に村人を虐殺から救う介入はしない。
虐殺の途中で光は小小と村人の板挟みになっていた。小小に代わって村人を皆殺しにしたいとさえ思った。ただし光は小小と知り合ったばかり。色々と可哀相なことや子どもから懐かれていることは知っているけど、愛情の生まれる深い仲ではない。両親を生贄にした主犯(村長?)を殺すだけならともかく、村人全員を無差別に虐殺し始めた小小のことは、普通なら迷う余地なく止められるはずだった。だから迷う理由付けとして村人の醜悪さをとことん強調しているんだけど、個人的にはそれが嫌だ。


ちょっと直接関係のない話。
漫画のデビルマンはエログロ満載だけど突き抜けた爽快感があって気持ちいいから好きだ。映画のデビルマンは気持ちよくないから嫌いだ。
漫画のデビルマンは方向性を決めきらずに連載開始して、展開が自然にエスカレートして、結果的にテーマ性が生まれて名作になった。映画の場合、特に特撮の大作映画の場合はどうしても最初から設計図を作ってそこを目指していく作り方になる。アドリブの素晴らしさで成り立った原作を映画化するにはアドリブを計算で再現しなくてはいけない。原作漫画に比べて映画デビルマンのほうが最初からテーマに対しては意識的に向き合っていたといえなくもないけど、それが面白さに全く結びついていなかった。


日月同錯は第1話〜黒山村までの話で映画1本分くらいの尺はあるんだけど、そのうちでまともに楽しめるのは第1話くらい。姜明子に雑に飛ばされて黒山村に介入したのに、明確な成果と呼べるものは小小の心を救ったことだけ。それ以外の村人はむしろ首を突っ込んだせいで死なせてしまった感さえある。
こういう苦い結果に終わる話って、それをどれだけ読者に心構えさせるか、むしろ期待するように気持ちを誘導するかが重要だ。悲劇のエピソードゼロとか、悪役が悪に落ちるまでのスピンオフとかが人気なのは、結果が最初からわかっているからこそだ。すでにキャラ人気も確立しているし。主人公の賛否分かれそうなエピソードを描くにも、主人公の活躍を見せて受け手からの好感度を上げた後で、あくまで過去のこととして話に組み込んだ方が安全策。
せっかく現在に光の日記を読んでる少年がいるっていう設定があるんだから、後悔を綴る文章を少年が読んで驚くところなんかをエピソードの起点にして、話の方向性をガイドしてくれても良かったのに。ただ、日記を書きながら過去を振り返る光の視点を強調してしまうと、光を眺めながらいいように誘導しようとしている姜明子と役割がバッティングしてしまう。個人的には姜明子を削除して誘導は同月令の機能で行うようにしてもらった方が時系列も2つに整理できるしありがたいんだけど、この漫画で現在人気があるのって他人をいいように見下せる姜明子っぽいんだよな。個人的にはいけ好かない男だけど人気が出るとしたらこいつくらいなのはわかる。
設定のわざとらしさに目を瞑れるのは期待に応えてくれる展開があるからだ。女を暴漢から救って感謝されるとか、悪党をぶん殴るとか、モテるとか、チートとか、安っぽくても結末への期待をうまく誘導して、そこは満足させてくれると嬉しい。ちょっとした期待や予想は適度に裏切ってくれると楽しい。わざとらしい設定の固まりなのに、期待を裏切る方向にしか舞台設定が活かされないなら興ざめだ。