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偽士は去るべし

自分が中国の近現代文学で初めて触れた作品は、中学生の時に授業で読んだ魯迅(本名:周樹人)の『故郷』だ(歴史的な文豪相手に先生やさんをつけるとかえって馴れ馴れしいので敬称略)。中国の辛亥革命前後を扱った作品に初めて触れたのもこの時だった。というか、民衆視点から辛亥革命を描いた作品で自分がまともに学んだことがあるのは魯迅の小説くらいしかない。

魯迅の小説は短編が中心で、最長のものも中編の『阿Q正伝』。小説の作品数も多くないので読み切るだけなら難しくはない。古い訳のものなら無料で読める作品もある。

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ただ魯迅の作品は雑文集のほうが膨大な量があり、特に後年はそちらが主戦場になる。雑文集はまだあまり読めていない。

魯迅の経歴については自分の文章なんかを読むよりもきちんとした媒体で書かれた文章を読むほうがよほど手早いし正確だ。

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しかし魯迅の小説を味わうためには時代背景の理解が不可欠なので、必然的に魯迅自身の人生にも多く言及することになる。創作者とはそういうものだけど、完全に創作として書かれた作品も魯迅の体験を下敷きにしていて、自伝として書かれた作品も創作的な要素で脚色されている。自伝はむしろ自作の解釈の方向性をコントロールするために書かれた文章として読むのが適切なのかもしれない。

故郷』の主人公は没落した地主の息子であり、実家を引き払うために二十余年も離れていた故郷に帰ることになる。美しい思い出の中の故郷がすっかり失われてしまった事実、あるいはそれらが幻想でしかなかった事実に直面する。しかし新しい世代に対しては、「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(竹内好訳)と期待を抱いて物語が終わる。魯迅自身が没落した地主階級の息子であり、自分の体験を反映した作品だとされる。魯迅は都会育ちではあるけど母の実家のある農村には幾度か訪れており、馴染みがあった。

魯迅は当時の文豪の多くがそうであるように愛国者で、かつ当時最も進んだ社会体制とされた共産主義体制の支持者だった。当時は進化=進歩という誤解に基づく進化観、生物と社会を直線的に結びつける発想などから生まれた社会的ダーウィニズムが盛んに論じられており、弱肉強食の国家関係が肯定されていた。もっとも、魯迅は愛国左翼作家ではあったものの、作家と体制が癒着して独立性を保てなくる事態は避けようとしていた。社会主義革命の完成を見る前に亡くなっており、社会主義体制の正当化のため本格的に政治利用されるようになるのもあくまで死後のことだ*1

魯迅は祖国が欧米列強や大日本帝国によって植民地化されつつある中、文学によって国民の精神を啓蒙することで、これに対抗を図った。近代化や文明化を熱烈に称賛し、当時の野蛮な世相を鋭くえぐり出す小説を執筆する一方、欧米にへつらい同国人をあざ笑うエセ知識人も厳しく批判する。日本留学中の1908年に執筆した評論『破悪声論』でも、そうした姿勢の萌芽が見て取れる。当時既に中国神話は嘲笑の対象となっていたが、古代人にとって人間と自然や人間同士が繋がるために必要なものだったと評価し、「偽士は去るべし。迷信は存すべし。これこそ今日の急務である。(偽士當去,迷信可存,今日之急也。)」としている。ここでの偽士は科学の上っ面だけをありがたがる言行不一致のエセ知識人を指す。

魯迅にとって農村とは封建的な悪しき社会制度が残存する土地であると同時に、古代から受け継がれた天性の愛と善をもつ素朴な民が保存された地でもあった。その両方の感情が表れているのが『故郷』だ。『阿Q正伝』や『祝福』のように前者が強調された小説が中心だが、『宮芝居(村芝居)』のように後者を強調した作品も存在する。また舞台は北京ではあるけど、『小さな出来事(些細な事件)』にも素朴な民が登場する。
魯迅は社会問題の淵源を天性が誤った社会制度から圧迫を受ける点にあるとした。当時の社会制度の根底であった儒教を搾取者・非搾取者の関係を肯定する人食いの思想として否定した。実際的にも中薬(漢方薬)には人肉を材料とするものがあった。

魯迅は士大夫(読書人階級で科挙官僚と地主を兼ねる)の家系の生まれで、祖父は科挙試験の最高位合格者である進士だった。しかし魯迅の幼少期に祖父が父の科挙試験で不正を犯し、祖父は投獄され、父は試験資格を失う。更に父が病気となり、当時の中国医学では薬代がかさむばかりの治療しか行えず、数年間の闘病の末に亡くなる。この没落の過程で魯迅は人間の様々な面を見ることになった。また郭巨の故事に倣い、祖母を養うために自分たちが埋められことを恐れていたと『二十四孝図』で語る。

18歳で学費の免除される江南水師学堂(海軍養成学校)に進学。日本の仙台医学専門学校に留学し、医師を志す。だが回想録の『藤野先生』によれば、未来のためには国民の身体の健康を図るよりも精神の健康を図るべきだと決意する事件があったという。

授業の余り時間で映写されたニュースの中には中国人がロシア軍のスパイとして日本軍から処刑され、それを一群の中国人が見物している場面が入っていた。周りの日本人が拍手喝采する中で、唯一の中国人だった魯迅にとって、その歓呼は耳を刺すように響いた。さらに中国に帰国してからも、中国人の処刑を見て歓呼を上げる中国人の一群を度々目撃する。

同胞の処刑を見世物として楽しみ体制を改革しようとしない同国人の意識を啓蒙する決意、儒教をはじめとした旧社会への嫌悪、自らも旧社会で生まれ育ったことによる加害者としての共感と贖罪の自覚、無意味な死や自己犠牲の否定、これらが魯迅文学の特徴とされる。

魯迅は小説で当時の国民の陥った病を正確に記述し、診断書とすることで、その自覚を促そうとした。

代表作『阿Q正伝』の主人公である阿Qは愚かな日雇い人夫で本名さえ誰も知らない根無し草だ。阿Qは革命の意味もわからないまま威張るために革命党に仲間入りしようとし、ぶらぶらしている間に革命党の行った略奪の罪を着せられ、処刑されてしまう。そして処刑で特段面白いことが起きなかったと民衆が愚痴を言う場面で物語は終わる。阿Qは愚かな罪人だが同時に実際に行った以上の罪を着せられた犠牲者でもある。日本に留学し文明人を気取る偽毛唐や、士大夫である挙人旦那ら「偽士」、阿Qの処刑を楽しもうとした村人たち、それらのすべてが罪人でもある。

デビュー作である『狂人日記』はゴーゴリの『狂人日記』に範をとった作品で、狂人の妄想という形で社会批判を行った。主人公はこの社会は人間が人間を食うことで成り立つ社会ではないかと疑念を持ち、次第に家族たちまでも自分を食べる気なのではないかと追い詰められていく。最後には幼い頃に死んだ妹を実は自分も食べさせられていたと考えるようになり、この国でまだ人間を食べたことがない子供を救わなくてはならないと考える。ただし小説の冒頭でこの日記を書いた主人公は既に「全快」しており、現在は官吏候補となっていることが語られている。社会の矛盾と真正面から向き合いすぎれば狂人となってしまい、自分の生活を優先するなら矛盾には目をつぶって周囲と合わせなくてはならなくなる。

次作の『』も食人を扱った作品だ。実際に人血を口にするシーンもあるが、『薬』の主題はむしろ食人そのものよりも、弾圧され処刑された革命家も、自分の蒙昧さを自覚できずに革命家を弾圧した民衆も、どちらも哀れな存在であるという点にある。革命家は自分を投獄し殴った人間を可哀相だと言うが、言われた側にはその意味がわからない。結核の息子の薬になると信じて革命家の人血を受けた饅頭を買った夫婦も、その甲斐なく息子が亡くなる。最後の場面の墓地にて、偶然出会った革命家の母親と結核患者の母親は、互いの素性を知らないままに息子を失った悲しみを分かち合う。

同時期に発表された『孔乙己』も科挙に落第した読書階級人の悲哀を描いた作品として評価が高い。

魯迅の後年は中華民国の国民党政府から逮捕状を出され、また日本が中華民国へ進行を始めた時期とも重なり、小説の発表数はわずかとなる。だが日本人の協力者らに匿われ*2散文詩や雑文集によって文壇では強い影響を持ち続ける。反魯迅派の若い文人たちとも壮絶な論争を行う*3

魯迅は西洋思想を学んだ若い時分から、聖書では「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の句よりも「目には目を歯には歯を」の句に共感するところが大きかった。遅々として進まない改革と理解を示さない民衆に苛立ち、処刑されたキリストをモチーフにした散文詩『復讐(2)』を書くが、その主人公はキリストとは異なり民衆に対して憤りを抱いていた。またキリスト教を軟弱な思想とみなす文章を書き、サタンをむしろ革命的反逆者として評価するようになる。これには日本留学時代より親しんだニーチェの思想の影響が強いとされる。ただ魯迅はこうしたエネルギーをあくまで社会や文壇を前進させるために用いようとした*4

辛亥革命が立ち消えで終わった悔恨の念もあり、魯迅は『「フェアプレイ」はまだ早い』にて、現在は水に落ちた犬を打たねばならない時期だとした。この水に落ちた犬とは失脚した政客・論客のうち悪質なもので、失脚した人間を一律に犬として論じてはならないともしている。「どうして水に落ちたにしろ、相手が人ならば助けるし、犬なら放っておくし、悪い犬なら打つ」。今は時期尚早だが、フェアプレイは必要だという。

魯迅は常に偽士を自らの敵と考えていた。