メモ帳用ブログ

色々な雑記。

マグメルも屍者の13月も、中文版と日本語版のセリフのどっちがどっちだったか頭の中でごっちゃになる。頻繁に読み直して頭の中を整理しないと。

今回の第9話だと、黄二果の10P目(アプリ表示上は11/35)のセリフ(「光 何やってるんだ!?」~「だめだ… やっぱり逃げようぜ!」の部分)は日本語版だと順番を組み替えたり省略したりしている。

省略されたセリフは2つ。

「你师兄我可尽力了!」(直訳︰お前の兄弟子である吾輩は本当に精一杯だ!)

「若这村子被屠村了,那都怪你!」(直訳︰もし村が虐殺されたらお前のせいだぞ!)

このセリフがあったら村人を救うべきはずの光がそれをできなかったという流れがよりわかりやすいけど、日本語的にはキツい言い方になるから避けたのかも。

無礼な奴らをぶっ殺す話も無礼な奴らでも命は許してやるべきとする話もどっちもある。北斗の拳だとケンシロウがモヒカンを倒すのを日和ったら興ざめだし、るろうに剣心だと回想パート以外で剣心が殺人をしてしまったら台無し。

屍者の13月(日月同错)の黒山村のエピソードは後者を選ぼうとしたのにそれに失敗してしまったという話だ。ただ日本語版だと意図的に変えてるのかも。

たぶん、この話は光が今後は一切民間人の被害を出さないよう決意するきっかけのエピソードになるはず。今回はどちらも救えなかったけど、これからは村人のような人間も白小小のような人間もどちらも救う。そのために尽力する。

第年秒先生はスパイダーマンの「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉(その元ネタは昔のフランスの慣用句)を自作で引用するくらい好きだし、WJ版の封神演義も好きだ。どちらも主人公が序盤で手痛い失敗を犯し、犠牲者も出て、自分の姿勢を反省するエピソードがある。そういう狙いなんだろうとは思う。その手法自体は定番ではある。

WJ版の封神演義といえば、ラスボス兼ヒロインみたいな存在の妲己は話の展開に沿ってどんどん位置づけが変わっていく。長期展開に従い、主人公の太公望からしても読者からしてもある意味愛着が湧いて、最後はただの悪ではなくなる。

それでもはじめは殺人を楽しめる妲己は最悪の敵という位置づけだったし、人間の内蔵を咥えて恍惚の表情を浮かべる妲己に対して主人公の理解者が「妲己は狂っている──」と感じるシーンもあった。後のエピソードとの連続性を考えるとやや過剰なシーンだけど、最初はこのくらい善悪がわかりやすいほうが読みやすい。