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三国志演義の第十九回の人肉食に関わる部分。


途次絕糧、嘗往村中求食。
(途中食料が尽き、村に出て食を求めた)
但到處、聞劉豫州、皆爭進飮食。
(行ったところでは、劉豫州劉備)と聞くと、みなが競って飲食物を進めた)
一日、到一家投宿、其家一少年出拜、問其姓名、乃獵戶劉安也。
(ある日、ある家に宿を求めると、その家の若者がうやうやしく迎え出た。姓名を問うと、猟師の劉安なる者だった)
當下劉安聞豫州牧至、欲尋野味供食、一時不能得、乃殺其妻以食之。
(その時劉安は豫州の牧と聞いて、獲物を探して召し上がってもらおうとしたが、その時は何も取れず、自分の妻を殺してその肉を食べさせた)


この時の劉備は手持ちの食料はないものの切迫した飢餓状態ではないようだし、劉安も肉は手に入らなかったが食うに困っているようでもない。それでも劉備をもてなすために妻を殺害するというのがこの話の特徴だ。
この部分は後世の創作とされている。『三国志演義』が小説として完成した明代の前後には、割股という子が病気の親に自分の肉を薬として食べさせる風習などがあった。
ちなみに劉安が妻を殺したと聞いて「玄德不勝傷感、洒淚上馬。」(劉備は感傷(悲しみ)をこらえきれず、涙を流しながら馬に乗った)のだが、日本ではなぜか「感 動 をこらえきれず、涙を流しながら馬に乗った」という誤読が一時広まってしまった。日本で広く読まれた吉川英治先生の『三国志』でも「玄徳は感傷してやまなかった。」となっているにも関わらずだ。『三国志演義』では庶民が劉備という貴人に心を尽くして饗そうとした結果、自分の家族を犠牲にするしかなかったというやむを得ない悲劇が描かれている。だから劉備が経緯を曹操に報告したところ、饗しの報奨として劉安に金百両が送られることになった。今の感覚からすると納得できない部分もあるが、小説として成立した明代の感覚からすると歴史ものとして問題のない範囲だった。