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色々な雑記。

歴史ものや時代劇は舞台となる時代以上に、制作された時勢の問題意識を反映するものだ。
1956年に発表された『楢山節考』は、小説やそれを原作とする映画ともに前近代の信州を舞台としている。だがテーマ性には、原作者である深沢七郎先生が1949年に母親を癌で亡くした際の体験が色濃く反映されている。題材は姥捨てだが、描かれたテーマは甘っちょろいヒューマニズムを廃した状況でも失われない人間の尊厳だ。激動の時代を生き抜いた人間ならではの視点だ。また作者は作中の村を「いい村」のつもりで描いたという。村の掟はすべての村人に平等であり、その平等な残酷さを主人公の母親は自ら進んで受け入れた。
姥捨てという伝承は存在しても実在しない風習を扱っていることや、農村にしては村人の関係が淡白であること、作者本人が漁村出身で執筆当時農民に憧れる都市民であったことなどから、狭義のリアルを描いた作品ではないとされる。しかし当時の人々はそのリアリティに圧倒された。
もちろん発表当時に考えられた尊厳のある死と、現代的な尊厳死は重ならない部分が大きい。生存が最優先だった時代の記憶がまだ残る発表当時の生活感覚と、「健康で文化的な最低限度の生活」が当たり前な現代の生活感覚も一致しない。もし同一の内容が現代に発表されていたら、また違った受容のされ方をしただろう。
深沢七郎論 : 「楢山節考」の夢の崩壊過程について
尊厳死の物語として読む「楢山節考」
現代文学における「姨捨」の系譜(六):深沢七郎「楢山節考」
飢饉・食料難に関する歴史教科書の記述について ~欧州諸国との比較を通じた一考察~