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しかし、ここで疑問なのは、国家はそもそも「復讐権」を代行実現する義務を負っているのか、ということである。宮崎は殺人罪の保護法益である「人の生命」が非常に抽象的で具体的な「その人」の利益を直接に示しているわけではないことを指摘しているが、法がその内部で具体的な個々人を名指ししてその利益を保護すると宣言することができるのだろうか。社会契約説を採って国家の役割が自然権の代行実現にあるとしても、それが具体的な個々の紛争における復讐の代行を含むと考えるのは、多分妥当していないだろう。宮崎は、本村洋との出会いによって「被害者に人権は認められない」という従来の立場を変容させざるを得なくなったと述べているが、おそらくはそのために、ここでの宮崎の論理は滅裂しているように見える。