メモ帳用ブログ

色々な雑記。

鬼滅の刃では弱者の淘汰は自然の摂理だと主張する鬼に対して主人公が、誰でも赤ん坊の頃は弱くて強い者に守ってもらうもの、お前だってそうだったはず、と反論する。強い者が弱い者を守り、弱い者が次の強い者となって弱い者を守るのが自然の摂理だと言う。敵の鬼は年を取らず、将来弱者となる老いを遠ざけ、過去に弱者だった赤ん坊の頃を忘れている。強敵との心躍る戦闘のことだけを考えて無神経な発言をし、主人公を激怒させた。上司が戦いの末に亡くなったのも、自分が強くなったのも、敵の喜びのためではなく弱者を守るためだと主人公は主張する。
確かに繁殖に関わる利他行動は自然の摂理といえる。ただし主人公は血縁のない自分や多くの人々を守りきった上司の生き様を肯定するためにこの主張をした。繁殖に関係する利他行動を繁殖の関わらない個体間関係にまで一般化しており、詭弁になっている部分がある。成長段階の強弱の違いには触れたが、個体や種ごとの強弱の違いは完全に無視している。だけど年を取らず群れを作らない鬼に対する人類の立場は主張できたし、何より主人公らしい勢いがあって好きな意見だ。
その鬼は本気で弱者の淘汰は自然の摂理だと考えているというよりは過去の自分への反発でそういう極論に走っていた。だから反発の極論にその反対の極論をぶつけることは十分な意味があった。
人類は個体群の協力によって自然淘汰を乗り越えてきた社会的動物だ。人類が弱者の淘汰というものをわざわざ意識したり理念化して旗印に掲げたりできるようになったのはむしろ文明を築いて自然から離れた後のことかもしれない。自然淘汰の威を借りた社会ダーウィニズムは科学でなくイデオロギーだ。自然の摂理といえば弱肉強食ではあるけど、人類同士で弱肉強食とか言うのだって個体間の強弱の話と種の強弱の話(例:オオカミはシカより強い)をすり替えている時点で詭弁というかレトリックだ。
まあ鬼が人間に対して弱者の淘汰は自然の摂理だと語るのは、異種と考えれば一応は一理あると言えなくもない。でも鬼はあくまで人間が後天的に変化した存在だ。鬼の始祖である無惨以外の鬼には人間を鬼に変える力もない(例外はある)。無惨は最期の最期を除いて同格の仲間を増やすことや世代交代にも興味がなかった。無惨が望んでいたのは自分という個体が永続することだけだった。そんな鬼たちに種という生物の概念は当てはめるのはやはり適当ではないだろう。人間の煩悩によって鬼になった者たちが自己正当化のために自然の摂理を語ることも詭弁だ。鬼こそ人類の新たなステージであり進化である、みたいな作品でもない。鬼はあくまでオカルティックで理を外れた存在として扱われている。