メモ帳用ブログ

色々な雑記。

最近の漫画の単行本はよく巻末に「収録されている表現は、作品の執筆年代・執筆された状況を考慮し、コミックス発売当時のまま掲載しています」と掲載されてる。日本国内の社会通念と表現の問題についてはほとんどこれで対応できるはずだ。
海外に輸出する際にはその国の社会通念と衝突する場合があるのもわかる。その国特有のローカライズが最低限行われるのは仕方ない。でもなるべく元の表現には手を付けないでほしいし、警告文や年齢制限で対応してほしい。下手に年齢制限が付くと商売的な障害になる場合もあるから商売的な判断としてはジレンマを迫られるんだろうけど。
日本で制作する際に、最初から世界中で年齢制限なしで通用する基準、つまり世界一厳しい基準を意識すらるものばかりになってしまえばつまらない。フィクションに関して自分は、国境をなく世界と繋がるグローバルやコスモポリタンよりも、国境がある上で超えていくインターナショナル派だ。エンタメでマクドナルド化を目指すものがあっても構わないけど、そればかりになれば逆に自由がない。
合理主義は全体主義であり、自由主義とは反合理主義であるというのは、リバタリアニズムの旗手であるフリードリヒ・ハイエクでさえ示唆していた。
ハイエク国家主義国家や共産主義国家の行う計画経済を批判する学説を多数発表する。1974年にノーベル経済学賞を受賞。その学説は、当時は古典的自由主義の立場から主張され、今日ではリバタリアニズムの立場から解釈される。ハイエクは自生的秩序である慣行・慣習・マナーを重んじ、人工的な合理主義を批判した。一方で、部族社会へ人工的に回帰しようとする動きも批判した。この点は、自然発生的な共同体の共通善を重んじながらも、共通善を自覚的反省や他の共同体との対話・競争によって改善することを命題とする現代のコミュニタリアニズムとは明確に異なる。
ハイエクの時代は民間のインターネットが未発達で、グローバル資本主義も発展途上だった。彼はグローバル資本主義が世界を席巻し、合理主義的な企業が世界経済を支配するような自由を想定していただろうか。
現代の資本主義国家において、フィクションの表現を規制する圧力は国家権力からグローバル企業としての合理的な無難さに移りつつある。国家を超えた経済規模を持つ企業が不十分な知性に基づいて合理的・計画的にフィクションの生産をコントロールしようとしている。フィクションの自由のためには、自生的秩序や反合理主義を再評価せざるを得ない時が来ているのかもしれない。