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ただ,マッキンタイアは個人が特定のコミュニティに「埋め込まれて」いても,そのことはそのコミュニティの 「道徳的限界」を受け入れることではないと主張していることにも注意すべきである [MacIntyre1984: 221 = 1993: 271]。例えば,彼はアリストテレスの伝統に関しても,異邦人や奴隷について政治的能力を認めないことや,職人の技術を「徳」の目録に載せなかったことは批判している[MacIntyre 1984: 221-3 = 1993: 272-4]。
「共通善の政治学」 と社会契約論 (1)「リベラル-コミュニタリアン論争」 と社会契約論


まず、この本でメリトクラシーは「能力主義」と訳される。確かに日本ではそのように理解されるのが普通だ。ただ、この訳語はちょっとアメリカで感じたニュアンスとは違うな、と思っていたら、そのことは巻末の「解説」でも指摘されていた。そこでは代わりに「功績主義」が勧められている。「能力主義」というと、ある人の内部に予め備わった「潜在的な能力」が想定され、場合によると、その人のもつ才能=本質まで示唆してしまうこともある。それに対して、「功績主義」の方は、その人の才能だけでなく、運や人脈まで含めて、とにかくその人が動員できたもののすべてによって得られた結果や成果の方に焦点が当たる。

コミュニタリアニズム自由主義から生まれた中道左派の思想だ。自由だけでなく平等も重んじる。マッキンタイアやテイラーから直接の影響を受けたサンデルはメリトクラシー(功績主義)に疑問を投げかけている。サンデルはメリトクラシーにおいて両親から受け継いだ文化資本と個人の能力・努力がしばしば混同される事実を平等の観点から批判する。また生まれついての個人の資質も平等なものではない。しかし学歴を否定することは社会的はしごを否定することにも繋がりかねないという批判も出ている。

メリトクラシー (meritocracy) とは、メリット(merit、「業績、功績」)とクラシー(cracy、ギリシャ語で「支配、統治」を意味するクラトスより)を組み合わせた造語。イギリスの社会学マイケル・ヤングによる1958年の著書『Rise of the Meritocracy』にて初出した。個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力の高い者が統治する社会を指す。
もっとも、ヤングによる著書は、知能指数と努力だけですべてが決まる「メリトクラシー」を採用したディストピア的近未来を舞台とした風刺的な内容であり、最後には、傲慢で大衆の感情から遊離したエリートたちを大衆が覆すという結末になっていた。つまり、ここでの「メリトクラシー」は、軽蔑の意を含んだ語であったのである。しかし、広く使われるようになるにつれて、「生まれよりも能力を重視して統治者を選ぶシステム」という前向きな意味合いで使われるようになった。

しかしながら、このような「がんばればみんなできる」という「能力=平等主義」は、欧米諸国ではすでに1970年代前半にくずれはじめていた。学校のメリトクラシーは社会の平等化ではなく、社会的不平等や格差の再生産に寄与しているという再生産理論が唱えられるようになった(小玉1999)。日本でも、1990年代以降の高度成長の終焉、グローバリゼーションの拡大等により、メリトクラシーに国民を包含しようとするシナリオにゆらぎが見えはじめている(耳塚2007)。つまり、メリトクラシーにすべての子どもたちを包含することはもはやできないという、近代的メリトクラシーの社会統合機能に対する限界の認識が顕在化しはじめているのである。