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芥川龍之介の書いた『杜子春』と、その下敷きになった唐代伝奇の『杜子春伝』は重要な部分が正反対になっている。それについて明治大学法学部教授である中国文化研究者が解説サイトを作っている。

www.isc.meiji.ac.jp

この違いは、近代日本人の価値観と唐代中国人の価値観が全く異なっていることによるもののようだ。もちろん、唐代中国人の価値観と近代中国人の価値観だって相当に異なるはずだ。また近代中国人と言っても、例えば魯迅などのインテリゲンチャと一般庶民の価値観も異なるだろう。急速に変化を続ける現代中国の人間にもまた違った価値観はある。ただ、『杜子春伝』と『杜子春』を比較することでさしあたって唐代中国人と近代日本人、そしてそれに連続する現代日本人の価値観を比較することができる。

唐代の『杜子春伝』と芥川の『杜子春』の最も大きな違いは、『杜子春伝』がバッドエンドで『杜子春』はハッピーエンドであるという点だ。どちらでも主人公・杜子春は仙人になるための薬を作るのに失敗する。だがその解釈が正反対なのだ。

ざっくりとあらすじを比較する。

唐代の『杜子春伝』は、放蕩者の杜子春が老人から金銭を恵んでもらい、恩返しのために人生を捧げたいと提案する。杜子春は身辺の整理をつける。実は老人は「道士」だった。道士は杜子春に石薬を飲ませ、これから声を出してはいけない、悲惨な目に合うが真実ではない、と告げる。杜子春は様々な幻覚を見るが口を閉ざし続けた。だが女に生まれ変わり、目の前で夫が子供を殺害したところで声を出してしまう。杜子春は愛だけは忘れられなかった。そのために道士の作っていた仙人になるための薬は完成しなかった。杜子春も仙人になることはできなかった。杜子春と道士は別れる。杜子春は誓いを忘れたことを恥じる。

芥川の『杜子春』は、放蕩者の杜子春が老人から金銭を恵んでもらい、自分に対する援助をやめた身内や人間を薄情な存在と思うようになる。杜子春は老人が「仙人」だと察していたので、弟子にしてくれるように頼む。杜子春が仙人となるためには魔性にたぶらかされようと口を利いてはいけないと仙人は告げる。杜子春は様々な恐ろしい目に合うが口を閉ざし続けた。だが馬に生まれ変わった母親が目の前で虐待され、さらには杜子春を思いやろうとしたため、思わず声を出してしまう。そのために杜子春は仙人になれなかった。だが杜子春は人間らしく生活する決心ができたと言う。仙人も杜子春が黙ったままだったら殺すつもりだったと語る。

唐代の『杜子春伝』で杜子春は俗世から縁を切ったつもりだったが、愛は忘れられず、道士への恩返しに失敗してしまう。身内への情は仙道の修行を妨げ、恩返しを台無しにする存在として扱われている。

芥川の『杜子春』で杜子春は人間に愛想を尽かして仙人になろうとするが、愛は忘れられず、仙人になるのに失敗する。だがかえって人間らしく生きる決心ができる。身内への情こそが人間に必要なものであり、仙人になることよりも人間らしく正直な生活をすることが大切だと説かれている。

またテーマの変更に伴って芥川の『杜子春』では杜子春が身辺の整理をつけるくだりが削除されている。唐代の『杜子春伝』で杜子春は宗族の孤児や寡婦を援助し、甥や姪を結婚させ、一族の遺骸を先祖の墓に合葬する。さらに恩人に報いるだけでなく、仇には復讐する。ここからは唐代の人間にとってつけるべきけじめがどのようなものだったのかを窺い知ることができる。