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古代ローマの哲学者キケロは、「パトリア(祖国)」が「生まれ故郷」を意味するだけでなく、「自分が市民権を有する国」を意味すると述べた上で、「自分が市民権を有する国」という意味の「祖国」に忠誠心を発揮することこそが重要だと主張した。この「市民的祖国」のためには自分の命をも惜しまない自己犠牲をキケロは説いたのである。

(中略)

視点を変えれば、愛国心パトリオティズム)にとっての“敵”とは、市民の自由や平等を脅かす暴政である。西洋政治思想史における「暴政」という概念は、暴虐非道な政治を必ずしも意味しない。「暴政」とは、一部の人々が私利私欲の追求に走り、権力を乱用することで共通善を破壊し、政治が腐敗する事態を意味する。

したがって、愛国者パトリオット)とは、元来、反体制側に属する人々を意味していた。なぜなら、体制側の人々こそが、私益のために権力を私物化しうる存在だからである。愛国心とは、共通善を脅かす権力の乱用に抵抗する姿勢を意味したといってもよいであろう。

(中略)

ナショナリズムとは広く定義すれば「ネイション」の独自性にこだわる主張や政治的姿勢を意味する。「ネイション」の中身は、同一ネイションのメンバーの間で共有する言語や社会慣習、文化や宗教、歴史などといった事柄であるために、異なる言語や文化、歴史などを有する他のネイションに対して潜在的に敵対関係にある。この点、パトリオティズムが「パトリア(祖国)」=共和主義的な政治的価値と制度にこだわるのと明らかに異なっている。

(中略)

では、現代日本では、なぜ“愛国心ナショナリズム”という理解が一般的なのか。先に指摘したように、明治時代のリーダーたちは、「愛国心」が「パトリオティズム」の翻訳であることを自覚していた。それにもかかわらず、「愛国心」がナショナリズムを意味するかのような“すり替え”が起こったのは何故なのか。

それは、明治日本が西洋から輸入したパトリオティズムが、古典的な共和主義的なものではなく、ナショナリズムの影響を受けて変質したものだったからである。キケロ以来の古典的なパトリオティズムを〈共和主義的パトリオティズム〉と呼ぶとすれば、ナショナリズムの影響を受けたものは〈ナショナリズムパトリオティズム〉と名付けることができる、別の代物なのだ。

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これがどの程度普遍的な内容でどの程度筆者の独自見解なのか、自分の知識だと判断が難しい。