メモ帳用ブログ

色々な雑記。

宮崎駿監督はセカイ系というか近代的自我というか、自意識が無意味に肥大化する気分はわかるほうの人間だ。だからこそ自分はそういう作品を作るつもりはないという。

いや、僕は人間を罰したいという欲求がものすごくあったんですけど、でもそれは自分が神様になりたいんだと思っているんだなと。それはヤバいなあと思ったんです。それから『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)なんかは典型的にそうだと思うんだけど、自分の知ってる人間以外は嫌いだ、いなくてよいという、だから画面に出さないという。そういう要素は自分たちの中にも、すごくあるんですよ。時代がもたらしている、状況がもたらしているそういう気分を野放しにして映画を作ると、これは最低なものになるなと思いましたね

だが『ナウシカ』は当初映像化の予定のない漫画として始まっただけあってそれとはやや異なるスタンスで制作されている。庵野監督は宮崎監督を尊敬しつつもアニメではパンツを脱いでいない、つまり恥部まで含めた己のすべてを表現していないことを批判し、漫画版のナウシカがクリエイターとしての最高傑作だと評する。
ナウシカ』はお綺麗なところまでで終わったアニメ版でさえ人類は絶滅を余儀なくされている。その点をアニメーターに批判された際に宮崎監督が反論した内容を庵野秀明監督と鈴木敏夫プロデューサーが暴露している。

庵野 『ナウシカ』の打ち上げのときに、最後のほうの、相当宮さんも飲んでたときに、スタッフのアニメーターの若い女の子が、ひとり食って掛かってて。
「人間が滅びてしまうじゃないですか、そんなの作っていいんですか」みたいなことを言ったときに、「人間なんてね、滅びたっていいんだよ! とにかく、この惑星に生き物が残ってれば、人間という種なんて、いなくなっても全然いいんだ!」っていうのを怒鳴ってるのを僕は横で聞いてて、この人すごいと、そのとき思ったんですね。
クリエイターとして宮さんが好きになった瞬間でしたね。人そのものに執着してないってのが根っこにあって、あれすごくいいですよね。
鈴木 「もしかしたら、私達そのものが汚れかも知れない」、もうそのセリフ読んだときにね、ああこの人、人間よりあっちのほうが好きなんだって。
庵野 『ナウシカ』の7巻は宮さんの最高傑作だと思いますね。まあ巨神兵のくだりは別にしてですね、宮さんの持ってるテーマ性っていうのが、あれに、すごくこう……。
鈴木 集約されてる?
庵野 集約されてるっていうか、もう原液のまま出してるわけですよね。本当に、本当はすごく、こう、アレな人なんですけど。
鈴木 そう。あの、負の部分っていうのか。
庵野 それがストレートに7巻には出ててよかったですね。『ナウシカ』の漫画にも色々出てますけども、7巻は特にそれが凝縮していて、いいですね。

漫画版の『ナウシカ』は人工種の人類であるナウシカが本来の人類の卵を滅ぼしてしまう結末を迎える。人工種の人類は腐海の毒に適応するようにつくられた(遺伝子操作?)ため、汚染が浄化された後の世界では生存できない。しかし本来の人類の復活を目指す墓所には人工種の人類を元の人類に戻す技術も伝えられているという。むしろ衰退の縁にある人工種の人類にとって墓所の奴隷となり技術の恩恵を受けることは救済と呼びえた。だからナウシカは単に生存競争のために本来の人類を排除したのではない。ナウシカが退けたのは本来の人類や墓所による生命そのものへの管理だ。
ナウシカは旅の途中でロストテクノロジーにより生命のすべてが管理された「庭園」を発見する。そこはすべての生命が調和し、人間も安らぎの中で生を終えられるよう設計された場所だった。だが現在の人類も腐海の動植物もすべてが環境汚染を浄化するために本来の人類が作り出した生命であることを知り、ナウシカは真実を見極めるために庭園から出ていく。そして墓所と対峙した際には生命を不変の安らぎで管理することのいかがわしさを指摘する。ナウシカにとって生命とは汚濁と清浄がせめぎ合いながら変化していくものであり、死と表裏一体の存在であり、単なる光ではなく闇の中でまたたく光だという。たとえ人工の生命でも生命は自らの力で生きていると告げる。ナウシカは自分たち人工種の人類が滅亡の影を振り払えなくなることを知りつつも、墓所と本来の人類を滅ぼす。ナウシカ腐海の生命も、清浄な世界の生命も、そのすべての行く末を星のなりゆきに委ねることに決めた。
ナウシカ』で描かれているのは、生命を目的論的・設計主義的な秩序で支配する傲慢さだ。地球の生命の秩序とは、生命の持つ両義性・混沌から自生的に形成される暫定的で移ろいゆくものであるべきということだ。宮崎駿監督の政治思想を踏まえてこの舌戦を読むと、度々言及する社会主義共産主義への失望がナウシカの発言に反映されているように感じられる。社会主義運動は理想社会の樹立を目指したが、その設計主義的な理想はそのままの形では現実世界で実を結ばなかった。現在の世界経済を動かしているのは市場原理に他ならない。社会主義を含む全体主義を設計主義的合理主義と批判し、資本主義・古典的自由主義の自生的秩序を擁護したハイエクの学説は正鵠を射た。
一方、ナウシカの発言はある種のアナキズムとも言える。無政府主義アナキズムギリシア語の「アナルコス「支配者がいない」という言葉が由来)は初期の社会主義思想において、マルクス主義と対をなす潮流の1つだった。現在では資本主義と社会主義の対立は自由主義権威主義の対立と見なされがちだ。しかし萌芽期では、権威主義的で富が一部に独占される資本主義・帝国主義と、労働者の自由と平等を求める社会主義の対立という色彩も強かった。宮崎監督は社会主義の手段と現実への失望は隠さないが、理想は間違っていなかったと度々語る。とすると、ナウシカの発言は自由主義社会主義に対する批判として捉えるよりも、無政府主義社会主義マルクス主義社会主義に対する批判として捉えたほうが適当かもしれない。農民・労働者の自由や連帯を社会進化の手段に位置づけて理論武装を図るマルクス主義よりも、農民・労働者の自由や連帯を直接に目指す無政府主義のほうが宮崎監督の主張と近いようにも思われる。
宮崎監督は現在でもパリ・コミューン空想的社会主義への憧れを抱いているという。空想的社会主義とは、科学的社会主義を標榜するエンゲルスマルクスが自分たち以前の社会主義を批判するために生み出した言葉であり、マルクスが同時代の無政府主義的な社会主義思想家であるプルードンらを批判するために使った言葉でもある。マルクス無政府主義的な社会主義を非現実的で妄想的と批判し、プルードンらの影響を受けたバクーニンは中央集権的な社会主義を独裁という手段が目的化して新たな権威が生まれるだけだと批判した。
世界各地に中央集権的な社会主義国家が誕生した一方、ついに無政府主義的な社会主義は長期政権を樹立することができなかった。しかし科学的社会主義が裏付けとした社会進化論が科学でなくイデオロギーでしかないと判明した現在、意義を見出しうるのは最初から理想でありイデオロギーであった空想的社会主義のほうかもしれない。