メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ジョージ・オーウェルは民主社会主義者として自由と平等、そして誠実さを追い求めた。オーウェルは、ナチスによる虐殺を非難した者がソ連による虐殺を賛美する、もしくはその逆のような欺瞞をことのほか嫌った。また、左派作家にしては珍しく「パトリオティズム」を重んじ、無責任なだけの平和主義者を批判した一方、「ナショナリズム」に対しては嫌悪をあらわにした。

ナショナリズムパトリオティズム愛国心)と混同されることはない。二つの言葉はどちらも普通とても曖昧な使われ方をし、その定義には疑問が投げかけられやすい。だが両者ははっきりと区別しなくてはならない。この二つは異なるものだし正反対の概念さえ含んでいるのだ。

オーウェルの糾弾するナショナリズムとは心理学でいう投影性同一視と重なる部分が大きい。
正直に言って自分にも非常に耳が痛い内容だ。苦し紛れに現代から見たオーウェルの時代遅れぶりを指摘することもできなくはないが、やるほうが卑怯だろう。あえて誠実に向き合うふりをして卑怯な指摘をするなら、オーウェルにはどうしたってイギリスと民主社会主義パトリオティズム以上の淡いナショナリズムを抱いている部分がある。特にイギリスの民主社会主義の可能性に対してアメリカの資本主義の可能性を見くびっている。理性主義に偏り過ぎているともいえる(ただしアメリカの資本主義も決して当時のイギリス人がイメージするような自由放任なものではなかった。アメリカにおいてリベラリズムとは社会自由主義・ソーシャルリベラリズムを指す。近年のネオリベラリズムも完全な自由放任ではないし、純粋にネオリベラリズムの実現を目指す政権はまだ誕生していない)。だが作家やジャーナリストとしては自分の思想をはっきりと打ち出した上で偏見を意識的に取り除くことこそが誠実な態度と言えるだろう。オーウェルの言葉は正確で非人間的な神託ではない。
オーウェルは小説家としてより先に批評家・エッセイストとして生計を立てていただけあって理性主義的に思考を組み立てる。啓蒙思想の欺瞞に向き合いつつも、根本的にはそうしたものに絶望しきってはいない。イギリスの欺瞞と向き合いながらイギリスを愛し、社会主義の欺瞞と向き合いながら社会主義の理想を信じた。
オーウェルガンジー評からは学ぶものが多い。

オーウェルガンジーを聖人とみなす風潮や聖人という存在そのものに対しても異議申し立てをする。だがオーウェルガンジー自身が聖人と呼ぶように求めたことは全くなかったことをよく了解している。ガンジーはあくまで誠実で敬虔、それでいて他宗教との融和に熱心なヒンドゥー教徒の1人だ。オーウェルガンジーヒンドゥー教的美学は来世志向的かつ非人間的で自分には受け入れがたいものだと表明しつつも、政治に関わる人間としての誠実さに敬意を表している。単に無責任なだけの平和主義とは違い、ガンジーの非暴力・不服従運動はラディカルなものだ。敵の命を奪わずに抵抗を続けるのなら時として自らの命を犠牲にしなければならないことをガンジーは隠さなかった。


翻訳者による的確な解説もある。