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色々な雑記。

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ビッグ・ブラザー - Wikipedia

自由とは二足す二が四だと言える自由だ。それが許される時、他の全てが後に続く。
一九八四年 - Open Shelf

『一九八四年』は全体主義を批判した小説だ。共産主義ファシズムの両方が糾弾されている。まず作者のジョージ・オーウェルが民主社会主義者であるだけに、共産主義社会主義が陥りがちな堕落に対する指摘は詳細かつリアリティに溢れている。また、ナチス・ドイツをはじめとするファシズム体制を研究したことがうかがえる描写も多い。例えば物語の終盤で主人公の敵対者は何かのためではない、権力のための権力、すなわち純粋な権力の追求について言及している。これはナチス・ドイツによって悪用された「権力への意志」というニーチェの思想を意識しているのだろう。『ガンジーを顧みて』というエッセイなどからも、オーウェルニーチェの超人思想を批判的に咀嚼したことが読み取れる。
『権力への意志』という本は長年ニーチェの遺稿断片を彼の遺志に基づいて実妹が編纂した著作だとされてきた。また「権力への意志」はニーチェの思想の中心概念の一つだとされてきた。しかし現在ではドイツ民族主義者で反ユダヤ主義者であった実妹が、ナチスに取り入るために杜撰な編集を行ったことが判明している。ニーチェ哲学における『権力への意志』の位置付けついては議論がある。
ニーチェは既存の道徳、特にキリスト教的な道徳を後ろ向きで来世志向で強者に対する嫉妬、ルサンチマンが屈折したものに過ぎないとみなし、客観的で絶対的な価値観などないというニヒリズムと向き合い、それを乗り越えて自己肯定により強者として現世の生を充実させた超人を理想の存在として説いた哲学者だ。それ自体は1つの思想としてもっともなものだが、政治利用されると厄介な思想であることは歴史が証明している。
ニーチェは自身の著作の中で

生は、一つの特殊の場合(ここでみられることを生存の総体的性格へとおよぼしうる仮説)として、権力の極大感情をもとめて努力する。それは本質的には権力の増大をもとめる努力であり、努力とは権力をもとめる努力以外の何ものでもなく、最深最奥のものはあくまでこの意志である。

人間は快をもとめるのではなく、また不快を避けるのではない。私がこう主張することで、反論しているのが、いかなる著名な先入見であるかは、理解されるであろう。快と不快とは、単なる結果、単なる随伴現象である、一一人間が欲するもの、生きている有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは権力の増大である。

などと述べた。勿論これは自然科学的には正しくない。だが自我の充溢と芸術を至高のものとするニーチェは、宗教を科学的な手法で批判するだけでなく、科学も人間を生から遠ざけるものとして度々批判している。

科学の中では、自我は何ら意味をもたない。科学は非人格化の営みである。

また、

事実というものは存在しない。 存在するのは解釈だけである。

とも語っている。自然科学的な誤謬の指摘はニーチェ哲学の批判としては妥当ではない。
なお、これまで「権力への意志」と日本語訳されていた“Der Wille zur Macht”は「力への意志」としたほうが適当だとする意見が有力視されるようになっている。