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 「自由」という言葉自体は、もともとの日本語にあった言葉である。それを、幕末から明治の頃に、FreedomやLibertyの訳語として当てたのである。この点で、同じ「翻訳語」でも、「権利」や「個人」などが西欧の概念を翻訳するために新たにつくられた言葉であるのと、異なる。その、FreedomやLibertyの「翻訳語」としての「自由」は、日本国憲法97条が言っているように、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、輝かしい響きを持った言葉である。私たちは、人々が「自由」を求めることを当然だと考え、「自由」の抑圧には怒りを覚えるだろう。「自由」は追求されるべき価値であり、「自由」であることは「いいこと」なのである。

 しかし、もともとの日本語の「自由」という言葉は、そうした輝かしい響きを持った言葉ではなく、むしろ「よくないこと」というイメージを伴った言葉であった。それは、「わがまま勝手」、「したい放題」といった、よくない意味で使われることのほうが多かった。そのため、たとえば福沢諭吉は、FreedomやLibertyにはまだ適切な訳語がないと言い、「自由」という言葉も訳語の1つとしてあげてはいるが、しかし、原語(FreedomあるいはLiberty)は決して我儘放蕩を意味しないと、わざわざ断っている(福沢諭吉『西洋事情』)。福沢をはじめ当時の日本の知識人たちは、英語でいうFreedomやLibertyと日本語の「自由」が必ずしも意味的に一致するものではないことを自覚しており、FreedomやLibertyを「自由」と訳してしまうことには抵抗を感じていたのである。しかし、そのほかの訳語(たとえば「自主」、「自在」など)も原語の意味を十分伝えられるものではなく、結局、時を経て「自由」という訳語が定着したのであった。

 英語でいうFreedomやLibertyと日本語の「自由」の違いを端的に見ることができるのが、フランス人権宣言第4条の「自由(La liberté)は、他人を害しないすべてをなしうることに存する」とする規定であろう。西欧的な「自由」つまりFreedomやLiberty(フランス語ではliberté)は、その概念のなかに「他人を害しない」ことが当然の前提として含まれているのであり、他人を害するようなものはもはやFreedomやLibertyではないのである。これに対し、日本語の「自由」という言葉は、もともと、「わがまま勝手」、「やりたい放題」という意味合いを含んだ言葉であった。それをFreedomやLibertyの訳語に当てたことで、日本では、FreedomやLibertyの意味での「自由」(つまり、他人を害しないすべてをなしうるという意味での「自由」)と、わがまま勝手に何でもできるという意味での「自由」が、「自由」という1つの言葉のなかに混在することとなったわけである。こうして、日本では、「自由」というものが、とりあえずは何でもしたいようにできるという、非常に広いものとして理解されることになる。

憲法の言葉シリーズ⑦「自由」

 

自由が放縦でないと同様、 秩序は、自由の欠如ではない。(フランス語: De même que la liberté n'est pas la licence, l'ordre n'est pas l'absence de liberté.)
— アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 

我々が自由であるために、我々は皆、法の奴隷でなければならない。(ラテン語: Omnes legum servi sumus ut liberi esse possumus)
— キケロ

法の支配 - Wikipediaより孫引き)

(直接法のpossumusでなく接続法のpossīmusで書かれている場合もあった*1Wikipediaのほうが間違いかもしれない)