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色々な雑記。

エヴァのキャラは全体的に旧シリーズのエキセントリックな方が好きだ。ただ「理想の男にするはずだったのに出来上がってみたらただのおかしな奴だった」(庵野秀明(2000) - 早稲田大学 人物研究会 公式サイト渚カヲルに限っては、底が見えた代わりに中身もできた新劇場版の意義は大きいと感じる。カヲル―アダム―ゲンドウの類似性を強調したおかげで、旧シリーズだと後半母親にフォーカスが当たりすぎたせいで宙ぶらりんになったシンジとゲンドウの関係もすっきりまとまったし。カヲルのポジションも、旧シリーズのシンジにとっての理想のシンジから、ゲンドウにとっての理想のゲンドウに変更されたように見える。
旧シリーズでは、アダムが実は人類の父でなく使徒たちの母(?)という設定に途中で変更された。そのため、母親の魂を宿すエヴァンゲリオン、同世代の母親である綾波、実際の父親であるゲンドウに加えて「全体の流れをつかさどるアダムがもう1人の父としてそこにいる」「多重構造の中のエディプス・コンプレックス」(『スキゾ・エヴァンゲリオン』より)という予定されていた構図が使いにくくなった。その代わりリリスを母とする人類vsアダムを母とする使徒たち、という子どもたちが母親の代理戦争をやっている構図になっていた。
新劇場版だと、シンジ・ゲンドウの関係を、加持リョウジ(息子)・ミサトの関係と重ねることでさらにシンジの父親越えというテーマを補強している。旧シリーズから提示されていたミサト・ミサトの父親の関係との類似性も、短い描写で端的に伝えるために劇的な設定が足されている。
旧シリーズは当初の父殺しというテーマがぶれて母子関係にフォーカスが移ってしまったけど、それが却って計算できない深みや想像の余地を産んでいて面白かった。新劇場版は当初予定していたテーマにケリをつけたことで腑に落ちる話になった。一方、マリという設定のはっきりしない新キャラも登場したのは、そういう想像の余地が好きな従来のファンに向けた(少し意地悪な?)サービスの一種だろう。ある意味旧シリーズのカヲルポジション。漫画版の番外編に登場したマリと新劇場版のマリの設定がどの程度同じなのかにも想像する余地がある。ゲンドウと年齢が近いのか、あるいはもっと使徒やカヲル的(新劇場版のユイも?)で人智を超えた年齢なのか。もしかしたら何年かすると公式発表があってある程度輪郭が明確になるかもしれない。