メモ帳用ブログ

色々な雑記。

月島から見た鶴見像を整理する前に、鶴見の中央に対する感情について抜き出して、時系列順に並べておく。長期連載中の断片的な描写だが、それなりに整合性は取れている。

■スパイ時代(1891年):具体的な感情描写はなし。

 スパイ任務中に妻子を死なせてしまったことが、たとえ中央と対立しようと自分の手で日本繁栄を成し遂げなければならないと考える原動力に?

日清戦争時代(1894~1895年):描写がない。

■1895年:「中央から更に離れることでより自由に出来る事もある」

 日清戦争直後、新潟の第二師団から北海道の第七師団に左遷される。この2年前の事件で第二師団にいづらくなったため。中央から独立して動きたい意志は示しているが、まだ反中央感情はうかがえない。

■1897年:ウラジオストクにてロシアとの戦争に向けてこの地の占領を強く進言していると発言。

 後に出る情報と突き合わせるとアイヌの金塊の情報を得るためのロシア行きだと思われる。

 莫大な資金の必要な何らかの計画はこの時点からあったが、まだ中央に献策することを優先して日本繁栄やウラジオストク占領を目指していたように見える。ウラジオストク占領も単なる私情でなく軍事上必要不可欠と判断したからこその進言だった。だがそれは行われなかった。

■1900年:鶴見が鯉登音之進に接触

 この時点から大湊水雷団の軍事力を味方につける計画を練っていた。

■1901年:「あ~~~~くだらん… 中央にはうんざりだ」

 陸軍の藩閥政治に基づく派閥争いにうんざりしている。確かに鶴見は第七師団で藩閥政治によらずに部下を束ねた。ただし別の派閥争いが深刻化してしまった。

 中央の命令で裏を取る前からロシアでも(1897年に?)アイヌの金塊の情報を得ていたことが明らかに。

■1902年:鶴見と鯉登平二が誘拐犯から音之進を救出。

 誘拐事件は鶴見の自作自演。大湊水雷団の司令官である鯉登平二とのコネクション作りに成功。

日露戦争勃発(1904年2月8日)、第七師団が満州出征(1904年11月20日

■旅順攻囲戦第三回総攻撃(1904年11月26日~12月6日):鶴見は二〇三高地攻略に否定的だったが従うしかなかった。

 鶴見は機関銃の発射音を聞きながら「この無駄な攻略を命令させた連中に間近で聞かせてやりたい」と感じた。「命令した連中」でなく「命令させた連中」なのがポイント。史実だと命令したのは花沢中将のモデルである乃木大将であり、命令させたのは早期攻略を要請した大本営だ。作中でも谷垣が、大本営が早期攻略を急かしたにも関わらず、この作戦の参謀長でもあった元第七師団長花沢幸次郎中将が揶揄の対象となり、帰国後に自責の念から割腹した、と悔し気に語っている。ただしこの自刃は鶴見による偽装殺人であることをほとんどの鶴見の部下たちは知らない。主な目的は反対派の花沢を排除して満鉄計画を突き進ませ、満州を実質的に日本の地にするため。中央から迫害を受けることで第七師団の結束を高める狙いもあった。

 尾形たちに勇作殺害指令を一度出し、指令撤回に背いて尾形は勇作を殺害。尾形と宇佐美には「勇作殿が消えれば百之助が父上から寵愛を受け花沢閣下を操れる」と説明していた。ただ鶴見はこの目論見が失敗することを見越し、すでに花沢暗殺を計画していたと考えるのが自然に思える。

 鶴見は日本繁栄のためには政権転覆を起こして自分が無能な中央に取って代わる必要があると前々から考えていたようだ。だが完全に覚悟を固めたのは旅順攻囲戦がきっかけかもしれない。

奉天会戦(1905年2月21日~3月10日):アイヌの金塊で北海道を支配し、やがて政権転覆を目指す計画の始動を月島に宣言。

 月島は日露戦争で亡くなった第七師団の戦友のために満州を日本の実質的な領土にしたいという思いがある。それを語ってくれた鶴見の姿も強く印象に残っている。しかし鶴見は以前から政権転覆と極東進出を目論んでいたのであって、日露戦争で亡くなった戦友のためという部分は、あくまで進むべき道の傍らにある個人的な弔いに過ぎない。

ほとんどの鶴見の部下たちは政権転覆と満州進出は日露戦争で報われなかった自分たちのためだと騙されている。

日露戦争終結(1905年9月5日)