メモ帳用ブログ

色々な雑記。

鶴見はキリスト教徒ではないはずだが、キリスト教のイメージが重ねられる場面が多い。鶴見がカルト集団の教祖のような振る舞いをしていることも宗教的な印象に拍車をかける。2回の聖母子像のパロディや、アシㇼパとソフィアに教えを説き鯉登と月島に鶴見劇場をした場所が教会であることや、鶴見の重視する愛がキリスト教の中心的な教えであることや、鶴見をより理解しやすくするためのキャラである関谷がキリスト教徒であることなどだ。また、鶴見の妻であるフィーナの信仰はおそらく東方正統教会(東方キリスト教)だろう。
これは鶴見の独裁的で集団主義的、一律主義的な面が一神教であるキリスト教に擬えられてるのだと思う。
作中でもキロランケやウイルクがロシアにより少数民族の信仰を奪われ、キリスト教に改宗させられていく現状に危機感を覚えていた。神様が変われば文化も生活も変わってしまう。アシㇼパも樺太の旅を経て、自分たちの文化を守るために動く必要があるという点には心から納得した。
鶴見は和人だろうとアイヌだろうと差別せずに日本人として扱うと有古に語り、実際にそうしてきたようだ。日本人は結束しなければ生き残れないとも語る。だがウイルクたちのまだら模様の金貨を批判したことからもわかる通り、鶴見の目指していた結束とは等しく、そして均しく一つになる道だ。定まった1つの正義以外を排除する道だ。マイノリティがマジョリティにすり潰されることへの抵抗を許さない道だ。
現実の一神教キリスト教は決してただマイノリティを迫害するばかり存在ではないが、そうした面があるのは確かであり、フィクションにおいてはその面が強調されるのが通例になっている。