メモ帳用ブログ

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『骨の音』と『トーマの心臓』について追記しようと思ったら長くなったので別記事に。死んだ者を忘れないことと死者に対する罪悪感がテーマになるからゴールデンカムイを考える上でもいい整理になった。あと今更気付いたけどTV版エヴァのカヲル君がトーマでシンジがユーリなんだ。道理で自分はカヲル君がそんなに好きじゃないわけだ。

シンジ:生き残るなら、カヲル君のほうだったんだ…
 僕なんかより、彼のほうがずっといい人だったのに…
 カヲル君が生き残るべきだったんだ。
ミサト:違うわ。
 生き残るのは、生きる意志を持った者だけよ。
 彼は死を望んだ。
 生きる意志を放棄して、見せ掛けだけの希望にすがったのよ。
 シンジ君は悪くないわ。
シンジ:冷たいね…ミサトさん

『骨の音』は遺された人間の悲しみを描いた作品だ。人間は自分自身が死ぬまで、生きているかぎり、遺された者となり続け、遺された者であり続けなくてはいけない。痛みを抱えながら日々を明け暮れていかなくてはならない。
トーマの心臓』はいつか死にゆく身である人間が、自分の死後も自分が受け継がれていくことを願って書かれた作品だ。トーマの死は遺された者の視点を通じて描かれるが、その悲しみはあくまで観念的でロマンチックなものだ。トーマの真意を悟ってその死を受け入れ、永遠にトーマという存在を背負わされることになったユーリの有り様はむしろ甘美でさえある。また、萩尾望都先生は文庫版で映画の中の自殺した少年に同情し、この作品を書いたと語っている。
二度の死という言葉も『トーマの心臓』ではクローズアップされる。「人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死」。こうした言葉は将来必ず訪れる自分の死を慰めてくれる。自分のなにかを受け継いだ人間が生きている限り、自分もまた死なないのだと思えれば、知覚できる自分の肉体の死は本物の死ではない。命懸けの献身で相手が救われると信じられるのなら命を捧げる意味は疑うべくもない。
またこの言葉は遺された人間にとっても慰めとなりうる。自分が生き続けることの罪悪感を和らげてくれる。葬式や墓が弔われる者に必要な存在というよりも弔う者にとって必要な存在であるように、こうした言葉は生者が限りある自分の生に踏みとどまるためのよすがとなるものなのだ。
死を超えて受け継がれるもののあり方を描いているという点で、『トーマの心臓』は岩明先生の作品の中だと『骨の音』よりも『レイリ』のほうが近いテーマを扱っている。だが『骨の音』と同様に他人の命を背負わされる生者の痛みに重きを置いているで切り口が大きく異なり、命の使い方に対する姿勢も違ったものになっている。
おそらく岩明先生は生者が死者に報いると語るときの欺瞞に気付いている。属する世界が異なる限り2つの存在は断絶している。生者が遺言に応えようと、踏みにじろうと、死者を覚えていようと、忘れようと、もう何も届かない。それに気が付かないふりをすることは生者の欺瞞であり、宗教だ。人間は真実を知って幸せになれるようなつくりをしていないというのが真実だ。それでも生者は限りある自分の生に踏みとどまるために何らかの納得を必要とする。死者と生者の対話で救われるのは死者ではなく生者だ。
自分は自分が将来死ぬことの怖さにはまだ実感が湧いていない。自分が今生きていることへの怖さは実感している。だから『骨の音』が好きだ。