メモ帳用ブログ

色々な雑記。

前にこの本がゴールデンカムイの元ネタのひとつっぽい?と書いたけど、実際読んだら興味深かったけど直接的な元ネタではなさそうだった。
それで調べなおしたら本当の元ネタらしい本が見つかった。ざっと読んだ感じ間違いない。取り合えずゴールデンカムイ的に特に重要なポイントをちょっと抜き出し。鶴見の「しかしそれは罪悪感との戦いにもなるんですて」で、あの場面の鶴見が罪悪感と戦わなくてはならないと言及しているのが、抵抗感を乗り越えて敵を殺す兵士であることが確定した。ただし、指揮官は部下に代行させることで敵を殺す罪悪感は免れているが、部下を愛しながらも部下を死地に送り出し、自分の責任で死なせることで罪悪感を背負う点も述べられている。

将校は殺人を命じはするが、みずから関与することはめったにない。命じるだけで、実行するのは別人だという単純な事実が緩衝材となって、殺人の罪悪感から守られているのだ。
(中略)
ほとんどの戦争で、前線の指揮官が犠牲になる割合はつねに部下よりはるかに高い(第一次世界大戦時、西部戦線に配属されたイギリス軍将校の二七パーセントが死亡したが、部下の死亡率は一二パーセントだった)。ところが、精神的戦闘犠牲者になる割合はたいてい有意に低いのである(第一次大戦のイギリス軍では、将校が精神的戦闘犠牲者になる割合は部下の半分だった)。

(p. 131)

戦闘中の兵士は悲劇的なジレンマにとらわれている。殺人への抵抗感を克服して敵の兵士を殺せば、死ぬまで血の罪悪感を背負い込むことになり、殺さないことを選択すれば、倒された戦友の血への罪悪感、そして自分の務め、国家、大義に背いた恥辱がのしかかってくる。まさに退くも地獄、進むも地獄である。

(p. 163)

すでに数々の研究で結論づけられているように、戦闘中の人間はたいていイデオロギーや憎しみや恐怖によって戦うのではない。そうではなくて(1)戦友への気遣い、(2)指揮官への敬意、(3)その両者に自分がどう思われるかという不安、(4)集団の成功に貢献したいという欲求、という集団の圧力と心理によって戦うのである。
たびたび目にすることだが、戦闘中に兵士の間に生まれる強力なきずなは、夫婦のきずなよりなお強いと古参兵たちは言う。

(p.167)

仲間の期待に応えられないのではないかという兵士の不安は非常に大きい。これほど強い友情と同志愛で結ばれた仲間を思うように支えられなかったら、罪悪感やトラウマは底なしに深い。しかし、程度に差はあれ、どんな兵士も指揮官もこの罪悪感をかならず感じているものだ。

(p. 168)

戦闘指揮官の役割は、深刻なパラドックスをはらんでいる。真に優秀であるためには、指揮官は部下を愛し、責任感と愛情のきずなで互いに強く結びついていなくてはならない。だがそのいっぽうで、部下を死なせることななるかも知れない命令を、みずから進んで与えなければならないのである。
将校と下士官兵、軍曹と兵卒のあいだには大きな社会的障壁が存在する。この障壁があるからこそ、上官は部下を死地に送り込むことができ、そして部下の死にたいする避けがたい罪悪感から身を守ることができる。

(p. 168-169)