メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ゴールデンカムイの、というか杉元の元ネタのひとつは映画ランボーだろう。ベトナム戦争で心に傷を負った帰還兵を描いた人気アクションシリーズだ。第七師団が花沢幸次郎自刃の責任を取らされて史実より冷遇されているのも、仮にも戦勝した日本軍の兵士を、敗戦しアメリカ国民からさえも唾棄されたベトナム帰還兵により近づけるためだろう。
ランボーシリーズ的な主題を優先するために、ゴールデンカムイでは人殺しの心理学で重要なあるトピックを意図的に設定に組み込んでいない、あるいは設定に組み込んではいるが言及を避けている。それは「戦争体験者のほうが未経験者より攻撃的傾向が強いわけではない」(p. 295)という点だ。より詳しい記述もある。

ここできわめて重要なのは、戦闘中の兵士はつねに権威者の指揮下にあるということだ。この点はぜひ理解しておかねばならない。規律に反した、あるいは無差別な発砲を許す軍隊など存在しない。だから、兵士の条件づけ(引用者注:訓練によって思考を挟まず条件反射的に敵を攻撃できるようにする。ただ無機質な部屋で円形の的を撃つよりも実際の戦地に近いフィールドで突然飛び出してくる精巧な人形を撃つなどするほうが効果的)においては、いかにして命じられたときに命じられた場所でのみ発砲するように条件づけするか、というのがきわめて重要な(だがどうしても見過ごされがちな)ポイントになる。
(中略)
無数の研究で実証されているように、今世紀のどの戦争についても、帰還兵の暴力がアメリカの社会に大して明瞭な脅威になっているという事実はない。暴力犯罪を犯すベトナム帰還兵もいるが、統計的に見て帰還兵の暴力犯罪が非帰還兵のそれを上回っているわけではないのだ。
(p. 403-404)

要は戦争帰りだろうが私的に暴力犯罪を犯せる人間は元々そういう素質のある人間だということだ。約15%のベトナム帰還兵がPTSDに苦しんでいるといい、深刻な社会問題になっているが、彼らの中でも直接的な暴力犯罪に走るものはごくまれだ。これはおそらくアメリカの帰還兵だけでなく日本の帰還兵にも当てはめていいはずだ。暴力的なゲリラなどの無差別に暴力行為に及ぶように教育された人間には当てはまらない。
だがこれをエンタメ作品であるゴールデンカムイにそのまま適用することは危険だ。エンタメ作品の主人公はたいてい現実的に考えると典型的なサイコパスの行動を取っているという。ジェームズ・ボンドのような言動をする人間こそがいかにも現実に存在するサイコパスらしいそうだ。だがランボーが暴力犯罪的行為に走ったのは元々ソシオパスの素質を持っていたから、みたいなことを言われて嬉しいランボーシリーズのファンはいないと思う。エンタメはあくまでエンタメだし、エンタメの主人公は大げさな言動をしても必ずそれに見合う成果を出すものだと約束されている。
ただ杉元の場合は元から喧嘩っ早かったという設定があるからこうした点をまったく意識していないわけではないのかもしれない。それでも一応武士道というか前近代的な価値観なら義を見いだせる範囲の行動に留められており、完全な反社会的人格を持っているわけではない。また幼なじみとの約束やおせっかいなど根底に他者への愛がある動機に基づいて行動している。ゴールデンカムイにおける杉元はあくまでソシオパスでなくノラ犬だ。
第100話で「日本に戻ってきても元の自分に戻れない奴は 心がずっと戦場にいる」と言ったときの杉元に適合する文章を人殺しの心理学から探すなら、まだこちらのほうが適当だ。なお1つ目の引用部分は孫引きである。

戦争は人を変える。戻ってくるときは別人になっている。そのことを、社会は昔から理解していた。未開社会で、共同体に復帰する前に兵士に浄めの儀式を課すことが多かったのはそのためである。これらの儀式では、水で身体を洗うなど、形式的な洗浄の形をとることが多い。これを心理学的に解釈すれば、戦いのあと正気に戻ったときにかならず伴う、ストレスや恐ろしい罪悪感を乗り越えるための手段と見ることができる。それはまた、弱さや孤独を感じさせずに恐怖を鎮め、再体験できる枠組みを与えることで、罪悪感をいやす手段にもなっていた。そしてもうひとつ、おまえは正しいことをした、社会はおまえが戦ってくれたことを感謝しているし、なによりも正気で正常な人々から成る社会がおまえの帰還を歓迎している、そう戦士たちに伝える手段だったのである。
(中略)
このような儀式にあずかれなかった兵士は、情緒的に障害を受けやすい。罪悪感を一掃できない、つまりお前のしたことは正しいと安心させてもらえないと、感情の内向が起きる。ベトナム戦争から戻った兵士たちは、この種の怠慢の犠牲者だった。
(p. 419-420)

ほとんどのベトナム帰還兵は、ベトナムで必ずしも対人的殺人の経験をしているわけではない。だが、訓練で非人格化を経験しているし、大多数は実際に発砲したか、あるいは胸のうちではいつでも自分が発砲できるとわかっていた。まさしくその事実、つまり発砲する気がある、発砲できるという事実(「頭の中ではすでに殺していた」)によって逃げ道がふさがれてしまい、戦争から持ち帰った自責という重荷から逃れられなくなったのだ。殺しはしなかったが、考えられないことを考えるように教え込まれ、そのために通常なら殺人者しか知らないような自分自身の側面を見せられた。問題なのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制というこのプログラムを経験した者は、その後に戦争に参加した場合、いちども人を殺さなくても、殺人の罪悪感を共有することになりかねないということである。
(p. 402-403)