メモ帳用ブログ

色々な雑記。

自分は一応仏教徒だけど霊魂とかあの世とか生まれ変わりとか信じていないから、死んだ人間に報いるとかはただ生きている人間が自分の罪悪感を和らげたいだけの言い訳だと思う。報いようが報いまいが死んだ人間には何の影響も及ぼさない。死んで無になった人間には何も届かない。それでも生きている人間が前向きになれるための言い訳がひとつでも増えることは良いことだとも思う。だから死んだ人間に報いることに囚われて生きている自分や他人を蔑ろにしたら本末転倒なんだけど、もしそれだけが生きる意味でそれを奪われたらその場で死ぬとか言われたら口出しのしようがない。そもそも生きている意味とか合理だけでは見いだせないから、結局は本人と周囲の納得次第なところはある。
ところで自分は、月島はいご草ちゃんが生きているとわかっている派だけど、いご草ちゃんは月島が戦死していると誤解したままなのは間違いない。ただ、デマを流した父親を殺して死刑判決を受けたから、死刑囚時代の月島がわざわざその勘違いを訂正するまでもないと考えた気持ちはわかる。その後月島は鶴見の部下としていご草への未練を残しつつ生きていたが、奉天の一件で完全に自分を生者でなく死者の側に属する人間だとみなすようになった。帰国後にいよいよ阿鼻叫喚の地獄へ足を踏み入れることを心に定めた。いご草ちゃんへの未練は捨てた。その後、いご草ちゃんの現状を知る機会が巡ってきた際も月島は自ら断っている。娑婆で生きるいご草ちゃんに地獄の住人である自分がいまさら関わるべきではないと考えたからだろう。事実上、やはり2人は死別していたのだ。ただ、この時の月島の隣には未来に地獄でともに戦う同胞となる鯉登がいた。地獄で落ちていくためのではなく、地獄で生きていくための道連れだ。