メモ帳用ブログ

色々な雑記。

『すずめの戸締まり』の個人的に一番グッと来たシーンについて詳しく感想を書こうと思ったら、語られていない設定を自分がどう補完しているかについて詳しく書かないといけなくなって、そうしたら『星を追う子ども』のネタバレを大量に書くことになってしまった。
『すずめの戸締まり』は『星を追う子ども』とストーリー構成は似ていないけど、要素やテーマはかなり共通している。意識的なリベンジ作品なんだろう。
星を追う子ども』のテーマは喪失感と寄る辺なさ、そしてその克服だ。女主人公のアスナは幼い頃に父親を亡くし、母親の女手ひとつで育てられている。母親はしっかりした人でアスナは健気な少女だが、お互いに気を張っているところがあり、特にアスナは母親にうまく甘えられなくなっている。猫(じゃない)も出る。
『すずめの戸締まり』の設定については一部が舞台挨拶やティーチインなどで新海監督により語られている。



『すずめの戸締まり』で個人的に一番グッと来たシーンはやはりクライマックスにある。中盤の山場で草太は要石と化しながら「でも──俺は──」「俺は──君に会えたから──」と言い、最後の最後に鈴芽と良い出会いができたことで満足して人生を締めくくれたように見えていた。だが鈴芽が草太の意識に触れたことで実は「俺は──君に会えたから──」の後に「君に会えたのに……!」と言葉が続いていたことが判明する。さらに草太の生に対する未練と死に対する恐れの言葉が続く。草太は鈴芽と出会ったことで自らの終わりを受け入れられるようになったのではなく、今までになかった生への強い執着を感じるようになっていた。以前は死ぬことは怖くないと言っていた鈴芽も、草太の気持ちを知り、自分も生きていたい、ひとりは怖い、死ぬのは怖いと叫んだ。


以下で長々語る自分の設定推測の要約
■鈴芽の父親は鈴芽が生まれる以前〜直後に亡くなっている
■草太の両親も亡くなっている
■現役の閉じ師は草太しかいない
■要石の役割を背負う神は土地の自然の神であり基本的には何度も要石になれる
■人が要石になる場合はあくまで器になるだけだが器が一柱の神としての人格(?)に影響を与えることはありえる


鈴芽は母親を震災で失っている。自分の生にどこか無頓着になっていたのはそのためだろう。小説では最初から母子家庭だったという設定が明かされており、鈴芽の母親・椿芽は未婚の母だったことがうかがえる。だが父親についての言及はこちらにもない。だから完全な想像だが、鈴芽の父親は椿芽との交際中に早世し、その前後に妊娠が発覚したため椿芽はシングルマザーとなる決心をしたのではないだろうか。また、鈴芽の祖父母も鈴芽が生まれる以前に亡くなっていた可能性が高い。看護師とはいえ椿芽が自らの稼ぎだけであの一軒家の家賃、もしくは購入後のローンを払っていたとは考えにくい。自分の両親から相続した家のはずだ。
また『星を追う子ども』のアスナは父が早世して女手ひとつで育てられているだけでなく、母親の職業はこちらも看護師だ。『星を追う子ども』にも自分を庇って腕に怪我をした長髪の美少年・シュン(草太はシュンとその弟のシンの要素が両方入っている)をアスナが手当てするシーンがある。やがてアスナもシュンに再会するために旅を始めるが、アスナの感情も単なる恋愛感情だけではない。ここではないどこかを求める感情から、そうした雰囲気がありまさにそうした場所の住人だったシュンへの憧れが強まり、シュンの故郷のアガルタへ向かった。なお映画では仄めかされるだけでアスナ自身も知らないが、アスナの父親はアガルタ人だ。この点を明かすとアスナが血の因縁に導かれてアガルタへ向かったような印象になるために、映画ではあえてオミットしたのだそうだ。
一方、祖父が育ての親だという草太も両親は亡くなってると考えるのが自然だろう。草太の両親が閉じ師を継がなかっただけでなく育児放棄をした可能性もあるが、いわゆる行間で察してもらう設定にしては情報量が多すぎる。
星を追う子ども』のシュンとシンの兄弟は両親を亡くし、村の世話になっていた。2人は寄る辺なさと縛られているという感覚を同時に持っており、それぞれの理由で村を捨てる選択をする。
草太も育ての親である祖父に相当な気後れを感じていたようだ。病身の老人に心配をかけないためでもあるだろうが、しくじりで失望させることを強く恐れている。祖父は見るからに厳しい師匠だ。草太を不出来な弟子と呼ぶのも閉じ師の責任の重さとそれを背負わなければならない草太への愛情のゆえであることはうかがえるし、草太もそれは理解していただろうが、甘えられる相手ではなかった。ただ、祖父が自分を助けるために鈴芽に協力してくれたことに気付けば、草太と祖父との間にあった距離も随分と縮まるだろう。
あるいは教師という職業を選んだこともより草太の気後れを強めていたのかもしれない。教師は閉じ師と両立するには不向きであるように思える。家業を軽んじるつもりはないが、自分で選んだ職業も諦めたくはない。草太が教員の二次試験の直前に九州へ来ていたのは、大きな仕事をひとつ片付けることで教師になっても閉じ師が続けられることを祖父や自分に納得させ、迷いなく試験に挑みたかったということも考えられる。
しかし草太はダイジンにより椅子に変えられ、要石の役割も移されてしまった。理解したくはなかったが、どこかで気付いていた。それでもひとりで落ちていく際の草太は自分の人生の終わりを受け入れられた。もし鈴芽と出会っていなければ落ちていく途中で引き上げられることはなく、未練が生まれることもなかった。
草太は廃遊園地で後ろ戸を閉じた後、幽世は死者の赴く場所であり、「現世に生きる俺たちには、そこは入れない場所、行ってはいけない場所なんだ」と少し悲しげに言った。無意識のうちに自分がそこの住人になることに気付きつつあったからだろう。また、先にそこへ赴いているだろう両親のことが意識にあったのかもしれない。だから途中まではそれを受け入れてしまったのかもしれない。
閉じ師は草太以外現役の人間がいないと考えていいはずだ。いれば草太は病身の祖父の前にそちらに接触することを考えただろう。素人の鈴芽を巻き込むこともなかった。他方、「要石は今、東京のどこにあるのか? 覚えている限りでは、どこにも書かれておらず、誰も教えてくれなかった」というセリフからは草太が祖父以外の閉じ師関係者と話したことがあるのがうかがえる。亡くなっているだろう両親以外にも最近まで閉じ師関係者はいたのかもしれない。しかし現在、他の閉じ師関係者はいたとしても高齢などのために家業を続けられなくなり、後継者がおらず廃業したようだ。ちなみに東京の要石の場所が秘匿されたのは、ティーチインによれば、皇居の地下であるために当時の閉じ師たちが政治的配慮をしたせいだそうだ。
要石の役割を担うダイジン(ティーチインによれば正式な名はウダイジン)とサダイジンは気まぐれな神だ。定期的に人柱として捧げられる『天気の子』の晴れ女とは違い、基本的には何度も要石になれる。ただし気まぐれな神が閉じ師などに自分の役割を肩代わりさせて逃げてしまうことはありえる。だが「草太はこれから何十年もかけ、神を宿した要石になっていく」という祖父の言葉からすると、人が要石になる場合はあくまでその亡骸が器になるのであり、中に宿っていく神は人の霊魂とは異なる存在であるようだ。ティーチインで語られた設定によると、ダイジンたちは土地の自然そのものであるという。また福の神でもあり、訪れる場所に商売繁盛をもたらすそうだ。一方、要石の正体に明確な設定はないが、災害とは現象である以上に人間の自らの被害に対する認識であり、災害を沈めるためには自然と人間の共同作業が必要だと思っており、要石もそうした存在だと考えているとも語っている。もし人間が要石になってダイジンが生まれたとすればその人間は小さな子どもの閉じ師で、だから子どもというより赤ちゃんのような振る舞いなのかもしれないと新海監督は想像しているという。