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すずめの戸締まりのテーマ的には、死者とミミズたち(=神々)の世界である常世と現世が隣り合っていて、時に扉を通じて影響を与え合うという点は重要だろう。神々が現世にやってくることがあるだけでなく、人間が要石を使って常世に働きかけることもある。


ティーチインによれば、災害を鎮めるためには人間と自然の共同作業が必要だと監督は考えているそうだ。災害は人間が被害だと認識するから災害なのであり、本来は自然の活動の一部だ。ダイジンたちは土地の自然そのものであると同時に元は人間だったかもしれないという。
【すずめの戸締まり】ティーチイン付き舞台挨拶のレポまとめ【ネタバレあり】 - Togetter
11月23日の舞台挨拶レポートでも、新海監督は気まぐれな自然そのもののイメージとしてダイジンたちを猫の姿にしたと語っている。
みじんこ on Twitter: "#すずめの戸締まり すずめの戸締まりの舞台挨拶、11/23に熊本光の森で行われた分のレポです〜 質疑応答の3つ目の質問は私がさせて頂きました。ご回答ありがとうございます! 新海誠監督ならびに原菜乃華さん、熊本に来ていただき、舞台挨拶のトークとアフレコと質疑応答ありがとうございました! https://t.co/GLXynKVuiL" / Twitter
ミミズにしても、本質は自然のエネルギーであり、日本的な神のひとつだ。自分たちが被害を受けるから人間は対処せざるを得ないだけで、善でも悪でもない。草太の言葉を借りれば「日本列島の下をうごめく巨大な力」であり「目的も意志もなく、ひずみが溜まれば噴き出し、暴れ、土地を揺るがす」存在だ。
パンフレットのインタビューによれば、プレートの運動によって起きる地震とミミズによって起きる地震が同時に存在している世界ではなく、日本列島の地下に溜まるエネルギー自体がミミズだという世界だという。ここには、人間に害を与える=悪の存在、人間に恩寵を与える=善の存在、などいう視点はない。善悪二元論を超越した、いかにもアニミズム的な自然の捉え方だ。
草太や鈴芽が唱える祝詞も「かけましくもかしこき日不見の神よ 遠つ御祖の産土よ」という呼びかけで始まる。日不見(ヒミズ)はミミズやモグラを指す古語で、日不見の神とは作中のあのミミズのことだ。「かけまくもかしこき」とは「口にするのも憚られるほど畏れ多い」という意味であり、ミミズも自然神として最大限の敬意が払われるべき存在である。産土とは土地の神々であり、ダイジンたちもその仲間だ。閉じ師はミミズとダイジンたちの両方に祈りを捧げて地震を鎮める。気まぐれな自然の恵みの面が強く出たのがダイジンたちで、災害の面が強く出たのがミミズだが、両者の根はひとつだ。
また、すずめの戸締まりでは過去と現在、あるいは現在と未来の邂逅というかたちでも2つの世界の接近が描かれる。
見直して印象の変わった部分だが、この作品において蝶は鈴芽の魂や感情を表しているのではないかと思う。蝶が鈴芽の両親の魂を示しているのではないかという以前の推察は消しておこう。
雨の中来ないバスを待つシーンでは、同じく密やかに雨宿りする蝶が鈴芽の心細さを表すのに効果的に使われている。また、芹澤に人々の生活のない被災地が綺麗だと言われてしまい、自分の捉え方との違いにショックを受けるシーンでも飛び立つ蝶が効果的にインサートされている。
そして4歳になった鈴芽と17歳になった鈴芽が会話するシーンでは2匹の蝶が2人のそばを舞っている。これは2人の鈴芽の時を超えた邂逅の象徴なのではないか。この時の夢を見て目覚めた鈴芽の周りでも、その際の名残を示すように2匹の蝶が舞っている。鈴芽はこの出会いのことをほとんど覚えていなかった。確かに4歳の鈴芽に17歳の鈴芽の話は難しすぎただろう。ただ、なんとなく良い思い出にはなっていたようだ。母親の記憶と混同されてしまったが、誰かが励ましてくれたことは確かに暖かい印象を幼い鈴芽の中に残していた。