メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ドラマ性とは人間同士の衝突や混乱のことだ。水戸黄門のような典型的な予定調和にも、調和に至るまでの予定された衝突や混乱がある。
新海監督の近年の三部作にはすべて登場人物が性別の典型から外れることによるドラマ性がある。これは現代的であるだけでなく、日本のエンターテインメントの伝統でもある。
君の名は。』ではいい意味で少年らしかった主人公・瀧と、いい意味で少女らしかったヒロイン・三葉の精神が入れ替わる。
『天気の子』ではヒロイン・陽菜はいわゆるヒーロー性に溢れるキャラクターだ。両親がいないため、一家の大黒柱として弟の凪を養おうとさえしている。凪は美少年で女装して周囲の目を騙すこともできる。主人公・帆高にヒーロー性はまるでなく、マイナスでさえあるのだが、そんな帆高だからこそ陽菜を救えた。自分には帆高ほどの蛮勇はないけど気持ちはわかる。帆高の兄貴分の須賀はいわゆる駄目な大人で、甲斐性なしと見なされて娘の養育権も亡き妻の母親に奪われている。だがクライマックスでは意地さえない本物の駄目な大人にならずに、青い意地のある帆高の味方をしてくれた。


『すずめの戸締まり』では女主人公の鈴芽は4歳まで母子家庭で育った。母であり大黒柱でもある椿芽は「お料理と工作が得意」で、大工仕事もこなせる力強い女性だった。母亡き後は叔母の環に引き取られ、ずっと女が男手も兼ねるのが当たり前の家庭に育った。そんな鈴芽はミミズとの戦いにも臆することなく飛び込んだ。ただ、蛮勇は決してポジティブなばかりではない。幼い頃に生死に予定調和などないということを自らの体験で思い知ってしまい、「生きるか死ぬかなんてただの運」だとずっと思ってきた鈴芽は、自らの生さえどこかで信じきれなくなっていた。だから死ぬことが怖くなかった。しかしクライマックスで草太の心に触れ、戦友と出会えたからこそ、死を受け入れられるようになったのではなく生きたくなったという気持ちを共有した。生死が不確かなものだからこそ生きようとするのだと思えるようになった。
鈴芽にとってのスリーピング・ビューティーである草太は美点においては両性的な青年だ。鈴芽からすると、母の面影が重なる美しさと、これまで身近に感じたことのない男性的な逞しさが同居している。そして生々しさにおいては無性的であり、神秘的な憧れの対象にすらなり得た。そんな青年の人間としての眼差しと声をクライマックスで鈴芽は知る。
芹澤はいかにも不良青年といった風体だが、人知れず孤独に戦うヒーローの草太に対しては理解ある待つ女みたいなことをやっていたりする。