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鈴芽の母親は


おそらく津波に流されている。鈴芽はあの朝に別れたきり、遺体となった母親とさえ再会することができなかった。4歳の鈴芽は、本当は母が亡くなったのだともうわかっていても、母親を探し続けた。母親と会って話して「おかえり」と言おうとした。それが叶わぬまま環に引き取られ、生まれ故郷を離れた。母親の椅子とともに。
12年後、母親の椅子には魂が宿る。椅子は喋り、動き回り、体温を持つようになった。宿った魂は美しい人のものだった。懐かしさと憧れの両方を感じさせる人。母の面影と、旅立ちの船から見た朝日のときめき。
旅の中で鈴芽と草太は戦友になった。2人は只人として生きる人々を助け、鈴芽は草太を助け、草太は鈴芽を助けた。お互いの体温を知った。鈴芽は草太が生身の人間だったことに気付いた。
その直後に草太は体温を失う。関節は固く硬直する。呼びかけても言葉が返ってくるはずもない。鈴芽が掴んだ時草太は既にどうしようもなく冷たくなっていたのに、ますます冷えていく。鈴芽は抗うように草太の名を呼び続けた。それでも鈴芽の手に残されたのはかつて人だった物でしかない。鈴芽は土の神であるミミズに草太を埋めることで、否応なしにそれを実感する。鈴芽の手で草太の埋葬は果たされた。4歳の鈴芽が奪われた大切な人の遺体と葬儀が、やっと戻ってきた。
だが鈴芽は草太の生の終わりを跳ね除け、埋葬をやり直そうとする。目の前には草太と引き換えに喋り、動き回り、体温を持つ自由を得た神がいる。草太の代わりに誰かを埋葬すれば草太の人生は返ってくるのだろうか。神がもう埋葬される気がないというのなら、代わりに自分を埋葬することは可能だろうか。
鈴芽は草太と再会するために死者の場所である常世に赴く。鈴芽は草太に人生を取り戻させるため、自分の人生を手放そうとした。だがその瞬間草太の人生を共有し、草太も自分の人生を失いたくないと思ってくれていたことを知った。草太は鈴芽に出会えたことで自分の人生の意味に納得しようとしたが、同時に自分の人生の価値を思い出していた。鈴芽も幼い頃以来揺らいでいた自分の人生の価値を取り戻した。
鈴芽の思いを知ったダイジンは自分を要石に戻すことを選んだ。草太は鈴芽の好きな人で、誰にでも優しい鈴芽はダイジンにも優しくしたけれど特別な相手としてではなかった。ダイジンは鈴芽の子にはなれなかった。ダイジンは鈴芽の「うちの子になる?」という不用意な優しさに惑っていた。この言葉はかつて鈴芽が環からかけられたものと同じだ。ダイジンは鈴芽にとって自分の子になり得たかもしれない、もうひとつの自分の可能性だったことに、鈴芽はようやく気がつく。ダイジンは鈴芽の目の前で体温を失って固まり、物体に戻っていった。ダイジンの埋葬は鈴芽の手で行われた。
そして鈴芽はもう一度自分自身と出会う。幼い頃の自分が常世で出会った相手は母親ではなく現在の自分だった。かつての再会も、再度の再会に対する希望も、幻だった。鈴芽は常世で草太を取り戻し、母親はどうしても取り戻せないことを思い知る。だが鈴芽は幼い自分に常世で見つけた母親の椅子を差し出した。母親の椅子は津波で流されたが、常世に漂着していた。奇跡のような確率で自分の元に戻ってきてくれた。鈴芽は幼い自分と母親への思いを分け合い、幼い自分を励まし、元の時代に送り出した。
鈴芽は「大事なものはもう全部――ずっと前に、もらってたんだ」と呟いた。椅子ははじめから、未来の自分に手渡された母親の遺体だった。その椅子は草太を救った際に消滅した。母親に対する本当の葬儀を、鈴芽は死者の場所である常世で果たしたのだ。鈴芽は現世に戻り、後ろ戸に鍵をかけ、「行ってきます」と告げた。そして一旦は草太と別れ、望んだ相手との再度の再会を今度こそ実現し、「おかえり」と言った。