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色々な雑記。

すずめの戸締まりでは鈴芽と環に細かく奥行きのある描写が施されている。それぞれの人物像についても、2人の関係性についてもそうだ。この作品には全体を貫く軸となる人間関係が2つあり、鈴芽と環の関係性はそのうちの1つだ。


終盤、鈴芽は環が自分の叔母という機能として自分のための世界に存在しているわけではなく、複雑な心情を抱える生身の人間であるという事実に直面する。それでも環は鈴芽を愛しており、鈴芽も環を愛していた。
千果、ルミ、芹澤などのサブキャラクターも端的な描写から人間的な厚みが感じ取れる。
他方草太については、今まで直接的に描かれなかった人間らしさがクライマックスではじめて明示されるという構成が取られている。鈴芽が草太は生身の人間だったことに気付き、生身の草太の手を取れるようになる、という関係の変化がこの作品のもう1つの軸だ。
鈴芽は初対面のはずの草太に一目で惹きつけられた。単に常人離れした美しさにときめいただけではなく、実は幼い頃に常世で出会った記憶がわずかに残っていたからだ。幼い鈴芽はお母さんと会えなかったことも、未来の自分と出会い励まされたことも、未来の自分のそばに草太がいたことも、はっきりとは覚えられなかった。お母さんを探していたら良いことがあってお母さんの椅子も戻ってきたという印象から、お母さんと再会できたようなイメージを持ってしまっていた。その「お母さん」の中には草太も含まれていた。
さらに草太は自らの肉体を失って鈴芽の母の椅子に閉じ込められる。その状態の草太と鈴芽は旅をする。旅の中で草太の意外に無謀で天然な性格を鈴芽は知るが、愉快なマスコットキャラと化した亡母の遺品と、生身の草太のイメージはまだ完全に一致していなかった。だから草太から自分は大学生で卒業したら閉じ師と教師を両方やるつもりだと明かされても、次の日に草太に驚くほど俗っぽい友人がいると知っても、その友人から昨日は教員採用二次試験だったのにと教えられても、それらを草太の人生としてうまく統合できず、意味を理解しきれなかった。草太は鈴芽に分別ある大人として接し、船の上と同じく「大丈夫」「君のせいじゃない」と言って気に病ませないようにした。だが災害と戦う中で鈴芽は草太を失う。それは母を失うことを繰り返すのに等しかった。鈴芽は母を失った故郷に戻り、今度こそ大切な人を取り戻すための戦いに挑む。死者の場所へ赴こうと恐れはなかった。怖いのは大切な人のいなくなった世界のほうだ。そして鈴芽は常世で要石となった草太に触れ、記憶を垣間見た。生身の人間としての草太を、はじめて本当の意味で理解した。鈴芽は他の誰でもない草太を助けたい、共にいたい、自分も死にたくない、と心の底から願った。だから鈴芽は草太を救えた。だがそれは草太を救っても母親が救われたりは決してしないのだと受け入れることでもあった。自分は母親のいる場所へ今は行かないのと、改めて覚悟することになった。鈴芽は母親との別れについても、はじめて本当の意味で理解できたのだ。生と死が隣り合っていることを知って以来ずっと揺らいでいたその境界を、紙一重のものであるこそ確かなものにしたいのだと思えるようになった。
こうした構成であるため、草太に人間としての厚みがあることに間違いはなく、よく考えれば人間らしさのうかがえる描写の断片は多数あるものの、その輪郭は見る側の想像に大きく委ねられる。ただ映画全体で人物に関して豊かさの感じられる描写がなされており、草太についても人間的な奥行きが存在することを確信できる。そうした積み重ねが作品全体でなされている。
ただ作品としての出来としてはともかく、オタク的な関心からするともうちょい草太の人間としての輪郭を公式から提供してほしいという思いはある。正直、現状だと千と千尋のハクとそこまで情報量が違わない。ハクは本物の神様だし千尋と初恋未満で別れてしまうキャラだからあれで十分。でも女主人公の新しい家族になる男に対してはハウルくらいちゃんと素を知りたい。ハウルも実は映画じゃ過去とかそんなに明瞭になってないけど、人間性ははっきりわかるから経歴はそこまで重要じゃない。
今ところ鈴芽や受け手よか芹澤のがよっぽど草太の素を知ってそうなんだよな。
つまりこの先の入場特典に期待大。