メモ帳用ブログ

色々な雑記。

エヴァ綾波は、庵野監督が友人の幾原監督から、ファンを裏切って本物を見せるために妊娠させたり年を取らせたりしてくれ、と言われるくらいに都合のいい幻想の対象となった存在だった。それでも自分(シンジであり視聴者)と折り合いの悪い父親であるゲンドウと親密にしていたり、死に際にゲンドウの顔を思い出したり、シンジからなぜエヴァに乗るのかと問われて「絆だから」「そう、絆」「みんなとの」と答えるくらいには(ただし「私には、他に何もないもの」というセリフが続き、シンジは綾波の健気さに辛くなる)、綾波はシンジだけに都合のいい存在ではなかった。
エヴァはエディプスコンプレックスをテーマの1つにしており、母親役である綾波は母親の都合の良さと母親の都合の悪さの両方を持っていた(ちなみにアスカはいわば他人としての役割を持っていたのだが、エヴァシリーズが続くにつれて身内として取り込まれて他人の役割が果たせなくなってしまい、新劇場版シリーズではその役割を新キャラクターに譲ることになる)。そして綾波から母親としての都合の悪ささえ排除し、究極に主人公に都合のいい存在として創造されたのがセカイ系のヒロインだ。これはこれでひとつの表現の極北として他に代わるもののない価値を持っている。しかし行き詰まりの価値であることは間違いないため、わかりやすいブームはすぐに収まりその先に進化することもなかった。エヴァ的・セカイ系的なエッセンスを薄めた作品なら今でも珍しくはない。
エヴァでは逆シンジというかもうひとりのシンジとしての役割があったカヲルが見ようによっては綾波以上に都合のいい存在だけど、自分に自分がどこまでも都合よくなれるのは当たり前というか、そこに安住すると究極の自閉にしかならない。だから新劇場版シリーズではもうひとりのゲンドウ的な存在に再解釈されたことでようやく独立したひとりのキャラになったと思う。漫画版のカヲルなら最初から独立したひとりのキャラだったけど、あっちはあっちでアニメとは別の解釈だし。