メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ダイジンについても、


人間としての自分の死を受け入れたことで、生きた他人を自分の身代わりにすることを諦めて、自分の役割を全うする道を選べたと考えれば綺麗に纏るんだけど、自分はこの点をこういう綺麗事で納得しすぎたくはないかな。前にも書いたけど。自分は、ダイジンと椅子草太の違いはあくまでひと続きのグラデーションであり、絶対的な断絶があるとは考えていない。それでも、無理やりにでも、線引きをしなければ何も選べず、何も為すことはできない。人間は思想や文化や宗教に責任転嫁しながらも、何かを選び、手にし、捨てながら生きてきた。あくまでダイジンの件は未解決や犠牲を背負ったままそれでも生きていかなくてはいけないことの象徴として、もやもやをもやもやとして受け入れておきたい。鈴芽はもうひとりの自分だったかもしれない相手を自分の手で埋葬した。
ただティーチインなどからすると、新海監督は映画の出来事によってダイジンが自分の役割を全うする気になれたことを、どちらかというとプラスの出来事としてとらえているようだ。だとすると少しは救いを感じてもいいのかもしれない。
また、ある種の御霊信仰や成仏を強調するような見方だと、ダイジンは気まぐれな自然そのもののイメージだと語り神が宿る以前の設定をあくまで裏設定に留めた新海監督の意図とずれてしまう。ダイジンの裏設定そのものはスタッフインタビューからするとこの古文書の通りでいいようだけど。

気まぐれな自然そのもののイメージ、というのはダイジンには里山的な自然とむき出しで残酷な自然の両方の面があるということだろう。ダイジンは元から無関係の人間を積極的に害する意図はなく、恋敵である草太には牙をむいたものの鈴芽が悲しんでいることを知って心を改め、一時とはいえ遊んでくれた鈴芽に協力する気になり、つまりいわば里山的な性質を前面に出し、むき出しで残酷な自然そのものであるミミズの封印に協力した。