メモ帳用ブログ

色々な雑記。

すずめの戸締まりであえてテーマ的に物足りないところを挙げるとするなら、


鈴芽にしろ、環にしろ、生まれ故郷でかつて空間的に広がりのある生活をしており、故郷を故郷という場所にしていた、という実感の描写が不足しているところだ。旅を通じて土地土地に住む人々の実感に触れ、土地を悼むことを知った鈴芽にはそうした直接的な描写は不要ということかもしれない。だがテーマを考えるとここはもっと踏み込んだ描写を見たかった。
鈴芽が母親を喪った傷は丁寧に描写されている。だが生まれ故郷とは、お母さんがいるだけでなく、お母さんと鈴芽のおうちがあるだけでなく、自分の通った保育園や保育園の先生やお友達や、みんなと一緒に行ったファミレスや、よくオタマジャクシを見に行った池や、まるで花園のようなご近所の家、夢中になってブランコを漕いだ公園、そういうものを諸々含めて生まれ故郷なのだ。
しかし作中で描かれているおうち以外の生まれ故郷の様子で際立って印象に残るものは、既に破壊されてしまった街、真っ黒なクレヨンで塗りつぶされた画用紙から思い出した大津波警報のアナウンス、そしてそれらとオーバーラップする、お母さんを探す鈴芽に他人事として接することしかできない人々の声だ。もちろん彼らは彼らで大変だった中で鈴芽を心配したのだが、お母さんを見失ったばかりの鈴芽にはその僅かな暖かさは冷たさだった。だからお母さんを探しに出てしまい、「うちの子になろう」と抱きしめてくれた環に救われる。九州で暮らすことになる。
生まれ故郷でおうち以外の暖かみを感じられるシーンは、唯一鈴芽が生まれ故郷の姿になった常世でそこの人々の「行ってきます」を聞くシーンにある。その「行ってきます」にはお母さんの声も混じっている。新海監督は制作中に描くべきシーンを描いていないことに気がついて、シナリオにはなかったあのシーンを加えたのだそうだ。
新海監督はやはり優れたクリエイターだ。あのシーンがなければ「場所を悼む」という本作のテーマが主人公の鈴芽にとって全く空疎になってしまうところだった。
ただ、鈴芽はこれまでの旅の中、縁もゆかりもなかった土地でも、その場所に思いを馳せることでその場所の声を聞いている。あの光景をきっかけにそれまで抑え込んでいた故郷に対する鈴芽の愛着が決壊するという演出でもない。だからあのシーンだけでは、5歳になる直前まで暮らした自分の生まれ故郷、というものに対する実感が少し弱い。