メモ帳用ブログ

色々な雑記。

小説版(原作版)では

====

鈴芽は芹澤に福島の景色を綺麗だと言われた際、その景色に「黒のクレヨンで塗り潰す、日記帳の白い紙」を重ねていた自分との違いに「単純に驚いたのだ」。福島の景色を綺麗だと感じる芹澤の感性に嫌悪感を覚えた訳ではない。鈴芽は芹澤の呟きを聞く直前、人々の生活が失われつつも自然の営みは活気を増した、のどかでさえもある眼前の風景を正確に認識している。鈴芽の一人称視点である小説の地の文でも、映画の映像でも、その光景は客観的に美しいものとして描写されている。それでも鈴芽はその場所が綺麗だと感じられなかった。
なぜなら鈴芽にとって4歳の頃に目の当たりにした死とは、否定したい現実そのものだったからだ。鈴芽は母親の死を現実だと認めたくなかった。そしておうちという場所の死も、故郷という場所の死も認めたくなかった。母親も、おうちも、故郷も、あの頃の姿のままで取り戻せるのではないかとどこかで思っていた。
目の前の美しい、だが変わり果てた福島の風景とは十二年ぶりに帰る現在の故郷の風景そのものでもあり、それを本当は察していたからこそ、無意識に否定しようとしてしまった。
鈴芽は旅の終着で、すっかり更地となって草の茂るおうちに足を踏み入れる。おうちから離れる時に埋めていた日記帳を掘り出す。そしてクレヨンで真っ黒に塗りつぶしていたページを直視する。母親を探しているのに会えず、故郷の人々からはごめんねと言われるばかりだった日々を思い出す。鈴芽がそのページを真っ黒にしてしまったのは、単に恐怖心の発露や不安を紛らわすためというよりも、現実を否認するためだった。「私は毎日、今日こそはお母さんと会えましたと書きたくて、でも書けなくて、そのことをなかったことにしたくて、毎晩日記を黒く塗り続けたのだ。紙の白い部分が残らないように、丁寧に、必死に、黒いクレヨンを塗り続けていた」と鈴芽は独白している。
お母さんと会えなかったことも、故郷が自然へ還っていくことも、お母さんもあの頃の故郷も亡くなっていることも、鈴芽はなかったことにしたかったのだ。
しかし物語の最後に、なかったことにするのをやめた。