メモ帳用ブログ

色々な雑記。

荒廃した土地でも植物が育つ、みたいな点だけに着目すると、日本の作品に限ってもはだしのゲンとか北斗の拳とか色々前例はある。
だがこれらの例だとその植物とは穀物だ。農産物である穀物の復活を人間社会の復活のメタファーにしている。はだしのゲンではもっと直接的に麦と主人公たちを重ね、麦の生命力をそのまま主人公たち広島に生きる人間の生命力として描いている。
それに対し、植物や自然を人間の征服する対象ではなく、利用する対象としてでもなく、全く独自の価値を持つものとして描き、しかも人間が衰退しようとも自然の再生そのものに希望を見出す視線を導入した作品、となると、日本での先駆者はやはり風の谷のナウシカだろうか。次作の天空の城ラピュタでも、ラピュタの遺跡に茂る植物やそこを住処に生き生きと生活するキツネリスたちは、ラピュタを離れたラピュタ人以上にその地にふさわしい住人であるように見えてくる。
衰退した人間社会と勢いを増す自然、という視点だけなら杜甫の『春望』の「国破れて山河あり 城春にして草木深し」や、杜甫の影響を受けた松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」のように古典的でさえある。しかしこれらはむしろ人間社会の衰退の物寂しさを強調するために植物の繁茂を描いている。人間の去った後の空間を自然に託し、同時に希望も託すような感情はこもっていない。
宮崎監督の自然観は日本の伝統的なアニミズムの色彩が強いものだ。それに加えて人間を特別な存在でなく単なる一動物種として客観的に把握する思想には、近代以降の科学的な知見の影響もある。宗教だけなら世界中のあらゆる宗教が、たとえアニミズムでも、人間をもうすこし特別な存在に位置づけている。