メモ帳用ブログ

色々な雑記。

君の名は。はアポカリプスを回避する話で、天気の子はアポカリプスのが起きても生きていこうと決意する話。そしてすずめの戸締まりは既にポストアポカリプスの世界で生きていることを認めようという話だ。
君の名は。と天気の子とは違い、天気の子とすずめの戸締まりにはストーリー上の直接的な連続性はない。だがテーマという点からするとむしろ君の名は。と天気の子に連続性がなく、天気の子とすずめの戸締まりに明白な連続性がある。天気の子で受け入れたアポカリプスの中ですずめの戸締まりのストーリーが展開されているとさえ言える。
新海監督は2011年の春に世界の破局が訪れたと感じたことが数々のインタビューから読み取れる。それにも拘わらず桜は開花した。だから実のところ人間社会に限られたものでしかなかった破局から超絶した自然の有り様を目の当たりにして「心底驚いた」のであり、どんなことがあろうとも日々が続いていくことに慰められると同時に、人間社会に対して無関心な自然の冷徹な美しさを感じた。
人間社会に破局が訪れたという理解がどの程度妥当かはともかく、認識としての筋は通っている。そして新海監督はこの点をすずめの戸締まりのテーマにした。
杜甫松尾芭蕉の詩は繁茂する植物の美しさを描くことにより物寂しさを表現している。それは植物の茂るその場所が以前は人間の領域であり、現在も本来はそうあるべき場所である、という認識があるからだ。
だがポストアポカリプスの世界で植物が茂っていく土地は、もはや人間の領域ではないことを認めるべき場所である。それまでの人間の社会が終わろうとも、世界が続き自然の美しさが滅びはしないことには救いがある。人間の社会だってこれまでとは異なるかたちで生き延びるだろう。現状を否認せず、在りし日の在り方が喪われたことを受け入れ、新たな在り方を模索することが本作のテーマだ。
そもそもこの作品において世界は人間のものではない。草太の祝詞は「かけまくもかしこきヒミズの神よ(口に出して言うことも恐れ多いミミズの神よ)」で始まり、「(土地を)お返し申す」という言葉で終わる。人間の場所とは、人間が土の神であるミミズから借り受けた土地の上に築いているにすぎない。十分に管理できなくなったのなら、本来の持ち主であるミミズに返却しなくてはならない。でなければ自然災害が訪れる。その大事な返却の仕事を担うのが閉じ師なのだ。人間社会という幻想、物語、ナラティブが自然という現実に食い尽くされないように維持管理を行っているのが閉じ師だと言い換えられるかもしれない。