メモ帳用ブログ

色々な雑記。

細かい部分。

小説版(原作版)では鈴芽は一人称視点である小説の地の文で

福島の景色に「黒のクレヨンで塗り潰す、日記帳の白い紙」を重ねていた。
ぱっと読んだ感じだと、津波に飲み込まれる陸地の比喩のように見える。目の前の景色はまさにそうした災害の結果生まれたものだし、植物に飲み込まれる街の光景は自然に飲み込まれる人間の領域という点でそうした様子と繋がっている。
ただ、そういう表現だとしたら「黒のクレヨンで『塗り潰される』、日記帳の白い紙」であるほうが自然な文章だ。鈴芽は人間の領域、街、陸地の側に属しているからだ。幼い鈴芽がトラウマとなった光景をクレヨンと日記帳で再現してストレスを発散しようとしているのだと考えても、やはり鈴芽は塗り潰す側でなく塗り潰される側としての認識を持つはずだ。
もしくは「黒のクレヨン『で』塗り潰す」という言外に主語が自分だと仄めかされている書き方でなく、完全な第三者視点で「黒のクレヨン『が』塗り潰す、日記帳の白い紙」となるだろう。
そうした違和感を覚えながらも読み進めていくと、この疑問は後半で解ける。
鈴芽は自分がクレヨンで真っ黒に塗りつぶしていた日記帳を見つける。そして母親を探しているのに会えず、故郷の人々からはごめんねと言われるばかりだった日々を思い出す。「私は毎日、今日こそはお母さんと会えましたと書きたくて、でも書けなくて、そのことをなかったことにしたくて、毎晩日記を黒く塗り続けたのだ。紙の白い部分が残らないように、丁寧に、必死に、黒いクレヨンを塗り続けていた」。この文章から鈴芽が塗り潰される側でなく塗り潰す側だった理由がわかる。「黒のクレヨンで塗り潰す、日記帳の白い紙」とは津波に飲み込まれる陸地のことでも、植物に飲み込まれる街のことでも、自然に飲み込まれる人間の領域のことでもない。鈴芽がなかったことにしようとした、お母さんに会えなかった現実のことなのだ。母親とおうちを失った現実のことなのだ。鈴芽がそうした現実の否認をやめることが本作のストーリーのクライマックスとなる。