メモ帳用ブログ

色々な雑記。

たぶんどうして自分は『君の名は』が気に入ってるのかについて考えてたんだと思うけど全然違う話になったぞって内容。自分は子供の頃からイソップ寓話の『田舎のネズミと町のネズミ』が記憶に残っていて、『君の名は』もその延長で見ているところがある。新海監督は地方出身だけに、東京育ちの監督とは違った視点で都市と田舎について捉えているのが面白い。


企業戦士やモーレツ社員はサラリーマンという職業に夢があった時代に生まれた言葉だ。その頃は多くの地方の若者が東京に出て就職し、出世を果たすことに憧れていた。幕末に若い農民たちがお侍様になろうと江戸へ出ていったのと似た構図と言えるかもしれない。ただし農家からサラリーマン家庭への転換は国をあげて掲げられた夢だった。

うちは親戚一同ド田舎者で、サラリーマン家庭と言うものはお友達の家庭として知っているに過ぎないものだった。つまりはよそのおうちのお話だった。その堅実で都会的なイメージに好感をもっていた時期はかなり長かったように思う。マンガで夢を語る時によく出てくる「このまま何もせずにサラリーマンになるしかないのは嫌だ」という言葉が何となく嫌いだったけど、その理由をはっきり言葉にして把握できるようになったのは自分が大人になってからだ。今どきの普通の東京の子どもにとっては、サラリーマンは何もせずになれるものでしかないのだと。

労働者における被雇用者の割合が8割を越える現在、サラリーマンを指す言葉で最も流行しているのは社畜だ。ある意味農奴と近いニュアンスがあるのかもしれない。日本の農民は中世ヨーロッパの農奴と比べれば自由の制限は少なかったと言われているし、江戸時代に人口の8割を占めた農民の暮らしぶりは飢饉などの非常時を除いてそう悪いものではなかったと論じられることが増えている。それでも幕末には少なくない農民たちが鍬を取り刀を買い求め、幕府への不満や不安を訴えた。不安とは、外部からの脅威が近づくことで高まるのと同じくらいに、内部で逃げ場がなく向上の希望が持てない日々に倦み疲れていくことで高まるのかもしれない。そんな時に逃げ出すことを夢想する場所はどこでもいい。よく知りさえしなければ、好き勝手に希望を持てさえすれば、どこでもいい。現代のサラリーマンは農家に夢を見ている人も少なくないのだろうけど、結局それはお互い様なんだろう。きっと人は夢を見合うことで生きている。