メモ帳用ブログ

色々な雑記。

日本のエンタメだと、自由を求める人間が闇落ちしてヒトラーのしっぽみたいなことをやりがちな気がする。言うほど海外の作品見てる訳じゃないから海外もそんなもんかもしれんけど。
悪い意味でファシズムというか全体主義というかムラ社会というかの残り香が強い文化だと、自分の自由を手に入れるためには周囲を屈服させなくてはみたいな方向に行きがちなんだろうか。自分の自由vs他人の自由って構図自体はどの文化圏でもあるだろう。ただ、自分のために他人を抑圧する行為は、政治・社会的な意味の自由とは相当な隔たりがある。英米仏あたりの元祖民主主義国家だと社会に支配者がいないのが自由で、元ファシズム国家の日本だと社会の支配者になるのが自由なのか。
ところで自由の国アメリカだと、言論の自由を重んじる関係で侮辱罪が存在しなくて名誉毀損罪もハードルが日本より高めらしい。法の支配の下での自由ってのも加減が難しい。
自由主義者がいうところの、国家が正義に立ち入るのは部族社会への回帰願望だから避けるべき、ってのはそれなりに理がある主張だとは思う。

進撃の巨人の素晴らしいところは、後半やや薄れるとはいえ、巨人の恐ろしさを受け手に伝えきっているところだ。想像力の足りない受け手だってワンシーンで理解できる。だから序盤で104期生が仲間を助けられず立ちすくんでしまったことを責める受け手は少ないし、塔に籠もったままガスの補給に行けなかった新兵にだって情けなさに憤りこそすれ本気の憎しみは湧いてこない。ましてカヤが母親を助けようと行動できなかったことを責める馬鹿や、カヤが生まれた村に復讐しなかったことを責めたりする馬鹿はまず見かけない。
正直、自分は勉強はできても人の気持ちを見落としがちな馬鹿に近い位置にいるので、本物の馬鹿を見てそうならないように自分を戒めないといけないと常々思う。人の気持ちがわからない馬鹿が他人の運命を決めるポジションにいたりするとゾッとするものだ。もし北九州監禁殺人事件の裁判官が馬鹿だったら主犯の男を無罪にしたりしてたかもしれないし。

「俺が宇宙開発に乗り出したい!」を「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう」(byコンスタンチン・ツィオルコフスキー)のようにロマンある言い換えができ、なおかつ万人の納得する理論武装をできる人間が社会を動かせる。

宇宙で行方不明になったソ連の宇宙飛行士がいるという都市伝説。

ソ連は地上の事故(百人単位)は頻繁に隠蔽していたけど、宇宙飛行士を宇宙に放り出すような、ある意味でロマンある事故は起こしていないという検証結果が出ている。

宇宙事業は精密な計算の上に成り立っていて一切のミスも許されない、みたいなイメージがあったけどこういうのを読むと意外と力ワザだ。

深海での潜水艦事故よりリカバリーが効きそうなくらい。
アポロ計画も当時の技術の結晶は現在から見ると力ワザ。安定を最優先にしたからでもあるけど、メモリが文字通りに手作り。

コスト度外視で人手を注ぎこめば発展途上の技術でも巨大なプロジェクトを達成できる。アポロ1
1号が実は月に行っていないという陰謀論は、ピラミッドが宇宙人に作られたというオカルトと正反対なようである意味で似ている。知恵と工夫と人手の結集に対する想像力が不足している。

映画『風立ちぬ』で主人公・二郎は「君はピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界の、どちらが好きかね」と聞かれ、「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」と、後ろめたさから言葉は濁しつつもピラミッドのある世界を肯定してしまった。自分はそういう気持ちはとてもわかる方の人間だ。

だから金持ちが自分のポケットマネーをじゃぶじゃぶ宇宙事業とかにつぎ込んでくれるのを見ると結構嬉しい。国や公的な機関の金じゃないから嬉しさの裏にある後ろめたさも幾分軽減されるし。
ところで、岡田斗司夫さん曰く『ライトスタッフ』を初めて見たのは「ちょうど『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を作りだした頃」だったそうだ。内容が被っていて完成度の高い作品が既に公開されていることにショックを受けたという。

生物は増えるために生きている、という言い方がよくされる。確かに生物は自己増殖する性質を持っている。生物を科学的に定義することは難しいが、それでも生物とは、膜で外界から区切られ、代謝を行い、自己複製するという3つの性質を持つものだと考えるのが現在は一般的だ。単なる個体の存続を超えた自己複製、世代交代は古くから人類の注目を集めてきた。現代でも、リチャード・ドーキンス博士の『利己的な遺伝子』など、生物の自己複製の根幹に関わる学説は社会や人々の意識に大きな衝撃を与えた。『利己的な遺伝子』では遺伝子選択説が擁護され、群選択説が否定されている。
ただし生物が何のために存在するのかという問いは、厳密には問いそのものが間違っている。生物は目的論的に存在するのではなく、結果的にある性質を持った有機体が生物とみなされているからだ。結果論から目的論を導き出すことはできない。導き出そうとすれば因果関係の逆転した嘘になってしまう。地球は生物や人類を育むために現在のような環境になっているのではなく、現在のような地球環境だから現在のような生物や人類が結果的に誕生したのだ。
生命は自己増殖するために生きているというよりは、偶然自己増殖する性質を持った物質が生命と呼ばれると考えるのが適当だ。その物質こそが遺伝子だ。遺伝子選択説を用いると、人類を含むサル類の繁殖戦略の違いなどもある程度説明できる。
例えば、ニホンザルはメスが生まれた集団に留まりオスが集団を移っていく母系制の社会を持つ。通常、オスの集団での順位は所属期間の長さと実力によって決定される。ハナレザルがいきなり集団を制圧して第一位のオスとなる場合もあるが稀だ。ほとんどの場合で新入りのオスは最下位からスタートする。所属期間が長く集団での順位が高いオスは、餌などの資源を巡って有利な立場になる。また、他のオスの交尾を妨害することなどもできる。だがメスの方には集団に長くいるオスとの交尾を避ける性質がある。この性質により、父子関係が明確でない乱婚制かつメスが生まれた集団に留まる母系制のニホンザルにおいて近親交配のリスクが軽減できると考えられている。遺伝子調査でも順位の高いオスほど新しく生まれる子の父親になりにくいという事実が確かめられた。オスは繁殖のために数年ごとに順位を捨てて集団を移り、最下位からやり直す。
一方、チンパンジーではオスの順位の高さが繁殖の成功に直結する。チンパンジーはオスが生まれた集団に留まりメスが集団を移る父系制の社会を持つ。乱婚制でも母子関係は明確であり、そこさえ避ければ近親交配は生じにくい。
あくまで印象だが、ヒトの社会はニホンザルよりはやはりチンパンジーに近いように思う。
たとえ話だが、「緑は赤よりは青に近い」というのは「緑は青だ」という意味ではない。