メモ帳用ブログ

色々な雑記。

日本語のダーリンは女が愛する男に呼びかける言葉なイメージ。英語のDarlingは愛する者になら女→男でも男→女でも使える。かわいいというニュアンスがあるからどちらかというと男→女が多い印象がある。古い世代にはそれなりに知名度のある「オーマイダーリン、オーマイダーリン、オーマイダーーリン、クレメンターイン!」の歌とか。親→子や、祖父母→孫も多い。〇〇の寵児という意味でも使う。
日本語でダーリンを男だけに使うのが定着しているのは『奥さまは魔女』の影響だろうか。『奥さまは魔女』のダーリンはダーリン・スティーブンス(Darrin Stephens)っていう名前で綴りも違うんだけど(多分本国的な意味でもシャレになっている?)、日本的な発音だと区別がつかない。

2022年1月からラブコメ漫画原作の『その着せ替え人形は恋をする』というアニメが放送される。ヒロインがコスプレイヤーで、雛人形職人見習いの主人公がコスチュームを作る。そこに引っ掛けて、金髪ギャルのコスプレイヤーであるヒロイン=「着せ替え人形」を、あえてビスクドールと読ませている。西洋の古めかしい(といっても歴史は近代から)ビスクドール雛人形の対になる存在ということだろう。
英題は『My Dress-Up Darling』。英語で「dress-up doll」という熟語は着せ替え人形のことで、darlingはどちらかというと女性を指す。だから普通に解釈すれば私の愛しい着せ替え人形という意味になる。原題と同じく魅力あるヒロインを説明するタイトルだ。ただ、ヒロインが愛される側になるので愛の主体と客体は反対になる。両思いが約束されたラブコメだから些細な違いではあるけど。
でも検索してみたところ、『My Dress-Up Darling』をドレスアップさせる私の愛しい人、つまり主人公を説明していると解釈する余地もあるらしい。この場合は主人公が愛される側なので愛の主体と客体は原題と一致する。

例の人に心当たりのない人は気にしなくていい文章。
自分はオタクでありオタク的なサイトも覗く。だから例の人が去年延々と、シン・エヴァンゲリオンで実はケンスケがアスカに売春させてるに違いない、ケンスケの家はヤリ部屋、現実の震災でしばしば性犯罪が発生するように第三村でも性犯罪が横行している、などの正気を失った書き込みを続けていたのを知っている。そしてそんな設定の訳がないだろうと指摘すると、読解力が足りない、想像力が足りない、と人格否定をしだす。例の人はこっちのブログ本館にも読解力が足りないだのどうのこちらを批判するコメントを残そうとしていた。読解力ってのはまあまあ特徴的なワード。どちらのログも出せるけど、こういう人間は自演でない証拠を出せとか言い出すに決まっている。

ソ連が宇宙進出において地上で大量の死者(事故や自殺)を隠蔽したことは事実だけど、宇宙で宇宙飛行士を生きたまま行方不明にする事故を起こしたというのは単なる都市伝説であり事実ではない。
ソ連アメリカに先駆けて有人宇宙飛行を成し遂げたのは事実だし、当時の状況からするとちょっとした偶然さえ重なればもしかしたら有人月周回飛行も先に成し遂げられたかもしれない。ただ有人月面着陸に関しては明らかに数年分の遅れが出ていた。
何かを非難するにしろ、評価するにしろ、議論するなら論拠は事実に置かれるべきだ。アジテーションであえて過剰な誇張をする場合でも、それが誇張表現であることは話し手と受け手の双方で了解されている必要がある。事実に基づく議論をする時に事実に反する論拠を持ち出すことはフェアではない。それに、小説『動物農場』で厳しい環境にある動物たちが農場に対する過剰な悪評を広められてかえって意固地に農場のために働いてしまったようなことは現実でも往々にして起こる。そういう意味でも“わかりやすい”表現には確かに功罪がある。極論は極論として、放言は放言として、冗談は冗談として伝わらなければ意味がない。
例えば、「このままだと2040年には日本の市区町村の半数が人口減少により消滅する」という意見はわかりやすく危機感を抱かせてくれるが、同時に極論でもある。現実的な対策を考える場でデータとして扱うべき数字ではない。
こういう点は自分も反省して気をつけなくてはいけない部分が多い。

世界大百科事典 第2版「法の支配」の解説
ほうのしはい【法の支配 rule of law
法の支配は法治主義とは異なる。法治主義という言葉も人によって若干用法を異にしているが,基本的には,統治が議会の制定した法律によって行われなければならないとする原理であるといってよい。これに対して,法の支配は,統治される者だけでなく統治する者も〈法〉に従うべきであるということを意味する。そこでの〈法〉には,議会が制定した〈法律〉を超えた,自然法的な響きがこめられることになる。そのような〈法〉が,統治の各面を支配すべきだというのが,法の支配の精神の真髄なのである。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「法実証主義」の解説
実証主義
ほうじっしょうしゅぎ
legal positivism
実定法 positive lawのみを法であるとする実定法一元論。実定法の上位に自然法の存在を認める自然法論と対立してヨーロッパの法思想を2分してきた。「悪法も法なり」 Dura lex,sed lex.「法律は法律だ」 Gesetz ist Gesetz.などの法諺が法実証主義に帰せられ,正義の観点を欠落させた価値ニヒリズムとして非難されることが多いが,少くとも近年の法実証主義は,認識と実践を区別し,認識の領域で自然法を否定するのみで,実践的な価値基準を道徳や良心の領域に保留ないし確保している場合が多い。このような法実証主義は,古くは J.オースティン,最近では H.ケルゼン,G.ラートブルフ,H.ハートらによって代表される。

他方、イギリスのような民主的な法・政治思想の伝統をもたず、民主的な政治制度の確立が不十分であったドイツでは、法治主義の思想はかならずしも民主政治の発展を保障するものとはならなかった。なるほど19世紀前半にモールが国民の権利保障を内容とする法治主義立憲主義の思想を展開したが、その思想も、続くシュタール、グナイストらによって、法律によりさえすればいかなる政治も合法的であるという形での法治主義に矮小(わいしょう)化されてしまった。こうした考え方はワイマール共和制下にあっても根強く残存し、その末期には人権保障や議会政治を無視する大統領内閣による統治が行われ、そのことがヒトラー登場の要因となった。第二次世界大戦後の西ドイツでは、法治国家の確立を目ざすとともに、社会正義を実現する「社会的法治国」たることを定めた憲法を制定したため、ようやくドイツも民主国家となった。

例外も多いが、概ね英米系が「法の支配」を重んじ、ドイツなどの大陸系が「法治主義」を重んじる。
「法の支配」の統治者も「法」に従うべきという精神は民主主義として完全に正しく思える。しかし自然法や民主主義がキリスト教的価値観を前提にしすぎているという現代的な批判も極めて妥当だ。
自然法を否定する法実証主義のほうが現代において現実的だ。だが現代の法実証主義者自身が少なからず意識しているように、「実践的な価値基準を道徳や良心の領域に保留ないし確保」することは怠れない。でなければ「悪法も法なり」となり、第二次世界大戦前後のドイツのように「法律によりさえすればいかなる政治も合法的であるという形での法治主義に矮小化」されてしまいかねない。