メモ帳用ブログ

色々な雑記。

そういえばシンの後、桜流しがゲンドウの歌と解釈できると話題になったけど、ミサトの歌と解釈してもピッタリだ。
忙しさなどの物理的な制約があるのを言い訳に、子どもと向き合うことを完全に放棄してしまうのは臆病さだ。100%の関係が築けないのなら0%にしてしまうというのは思考の放棄だろう。ゲンドウもミサトもこうした臆病さを抱えていた。
シンジはゲンドウの臆病さによってずっと傷ついてきた。しかし尊大に振る舞うゲンドウも、精神的にはむしろ弱いただの人間だったと気が付いたシンジは、ゲンドウに対するトラウマを克服することができた。カヲルもゲンドウの反動のような子どもを甘やかしてスポイルすることしかできない弱い父親のような存在だったが、シンジによって克服された。不完全な人間同士が補い合って完成に至るという人類補完計画がゼーレやゲンドウの野望とは違う形でなされたといえる。
一方、ミサトの息子であるリョウジも、本人の資質やおそらく周囲との関係などもあって朗らかに育ったようだった。
臆病な人間は周囲を不幸にするだけなのかと言われれば必ずしもそうではない。完全になれない不完全なものは存在すべきではないのかと言われれば違う。すべてのエヴァンゲリオンの締めくくりはそういうことだろう。