メモ帳用ブログ

色々な雑記。

セカイ系の特別な彼女と無力なぼくという構図は、トロッコ問題の「太った男」のバージョンと重なる部分がある。

今回、あなたは線路を見下ろす跨線橋に立っている。路面電車が線路を疾走しており、その先で五人の人たちが線路に縛りつけられているのが見える。この五人を救うことはできるだろうか?トムソンはここでも、五人を助けられる状況を巧妙に設定した。跨線橋にものすごく太った男がいて、手すりから身を乗り出して路面電車を眺めている。この男を突き飛ばせば、彼は跨線橋から転落して眼下の線路に叩きつけられるだろう。恐ろしく太っているため、その巨体に衝突した路面電車は激しく揺れながら停止するはずだ。悲しいかな、この太った男は命を落とす。だが、五人の命は救われる。
第4回 トロッコ問題について考えなければいけない理由 – 晶文社スクラップブック

ロッコ問題はあくまでどんな行動が倫理的かと考えるための設問だが、現実的に考えると犯罪だからやらないという結論になりがちなため、前提として行っても罪に問われないという但し書きが付いている。
この「太った男」問題をユニークなものにしている点が2つある。
1つ目は、問題で自分がいると想定されている位置だ。元のトロッコ問題では5人と1人は同じく線路上にいて、自分はそれを傍観者的に眺められる位置にいる。「太った男」のバージョンでは、5人は線路上にいるが、太った男は線路上ではなく自分のすぐ隣にいる。犠牲にし得る1人と同じ立ち位置にいるのが5人のほうから自分のほうへと変わっている。
2つ目は、自分と「太った男」とでは、電車を止める能力にあまりに大きな違いがあるという点だ。
もし自分と「太った男」の体重がさして変わらず、どちらが飛び込んでも電車を止められるのなら、太った男を突き落とすのは間違いなく倫理的な行動ではない。自分が飛び込むのと何もしないのとどちらが倫理的かという点も議論になりうるが、大勢としては自分が飛び込むのが倫理的という結論になるのが目に見えている。だからこの条件では実のある議論はできない。
自己犠牲という明明白白に倫理的な選択肢を取れずに、何もせずに5人死なせるか、本来は死ぬ必要のなかった1人を自分の手で死なせるかを選ばなくてはならない。この条件でようやくラディカルな議論が行える。

すでに論じたように、分岐線のシナリオであなたは線路上の男を殺したいわけではない。だが、太った男のシナリオでは、肥満体の男(あるいはバッグを背負った男)が、路面電車と危機に瀕している五人のあいだをふさぐ必要がある。彼がそこにいなければ、五人は命を落とすことになる。彼はある目的、つまり路面電車が五人を殺す前に止めるという目的に対する手段なのだ。太った男が自発的に飛び降りるとすれば、それは尊い犠牲となるだろう。だが、あなたが彼を突き飛ばせば、自律的な人間ではなく、まるでモノであるかのように彼を利用していることになる。
第4回 トロッコ問題について考えなければいけない理由 – 晶文社スクラップブック

ちなみに、普通のトロッコ問題では過半数が1人を死なせる選択肢をより倫理的だと感じるが、太った男のバージョンでは過半数が何もしない選択肢をより倫理的だと感じる。そして同情・羞恥心・罪悪感といった「社会的感情」に関与する領域に傷害がある患者は、太った男のバージョンでも1人を死なせる選択を妥当だとする傾向が際立って強い。
人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス | WIRED.jp
ただ、もし1人と5人の天秤ではなく、1人と1000人、1人と国家、1人と世界の天秤だったら、太った男のバージョンでもほとんどの人間が1人を死なせる選択を妥当だと考えざるを得ないだろう。他人を「自律的な人間ではなく、まるでモノであるかのように」「利用」する罪悪感に苛まれながらも。しかしその「1人」が自分の愛する人だったとしたら、その罪悪感は社会的感情のある人間に耐えきれるものだろうか? あるいは愛する人が自ら自己犠牲をしたとしても、その選択が自分のせいだったとしたら?