メモ帳用ブログ

色々な雑記。

京都アニメーション放火事件の犯人は計画性があるから責任能力アリはほぼ確実だ。構成の手本にしただろうワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのモチーフになったシャロン・テート殺害事件を起こしたマンソンファミリーだって、あのイカれた動機にも拘らず責任能力が認められている。



作品のテーマの1つが「Don't look back in anger」なのに、実在の犯人や作品オリジナル設定での犯人の病状に対する怒りに浸るためのダシにしようとする人がネットなどで必要以上に盛り上がってしまった。だから作者や集英社としてはそれに与するつもりはないという姿勢を打ち出す必要が出たんだろう。
Oasisの「Don't look back in anger」は、2017年にロンドンテロが起きた際、事件に対する怒りに囚われないようにと歌われた。

ルックバックの修正は2人の関係や創作の意義というテーマには影響が少ない部分だ。実在の事件をモチーフにした部分でも、実際の犯人から遠ざかった部分と実際の犯人に対する誤解を助長しなくなった部分とで半々くらい。
ウェブ漫画ならではの人気の盛り上がり方をした一方で、ウェブならではのネガティブ感情が連鎖する盛り上げ方をしようとする人間も少なくなかった。
藤本タツキ先生にしては珍しく社会に和解する方向性 が色濃く出ている作品なだけに、ウェブの社会に対応ぜざるを得なかったのか。


ジャンプ系の漫画アプリはエロ規制に厳しい。同じ集英社のアプリでもゼブラックはそうでもないのに。
徳弘正也先生の狂四郎2030がゼブラックでもヤンジャンアプリでも配信していたので比べてみたら、チケット読みの分はゼブラックでは無修正で、ヤンジャンアプリでは修正だらけだった。ゼブラックのplayストアでの年齢区分は12+で、ヤンジャンアプリは16+だ。ただジャンプ系のアプリは数年前に年齢区分が引き上がったようなので、その前はヤンジャンアプリのほうが年齢区分が下だったのかもしれない。
間口を広げるための低年齢版で修正があっても、容易にアクセスできる高年齢版で無修正ならまだいい。でもその辺の基準がぐちゃぐちゃだと釈然としないものが残る。
際どい表現に作品のテーマが出ている作品で、それが修正されると萎える。意図を超えて際どくなってしまった要素を作者の意向で変更するならいいんだけど。

善を善く生きることと捉えて、善を成し遂げるために正義を形作る、つまり善は正義に対して優越するという考え方は好きだ。
自分は真偽と善悪なら基本的に真偽を優先したい。でもバイオテクノロジーにおける生命倫理とか、その他の問題で真偽よりも善悪が優先される場面があるのには納得できる。それは善いことだと思う。
成果を目的とした研究よりも、研究のための研究のほうが何事にもロマンがある。ただ研究に莫大な費用がかかる分野では、予算の分だけ成果が求められるようになるのは仕方がない。近年特にそうした傾向が高まっているのも当然の流れだ。
とはいえ合理化よりもロマンに憧れる気持ちは当然ある。そうなると現世における神の摂理の追究を教義に含んでいるキリスト教は結構好感が持てる。キリスト教は研究のための研究や、芸術のための芸術に力を入れてきた伝統がある。地動説を弾圧したのはキリスト教だけど、地動説を復活させてより洗練させたのもキリスト教だ。自分は一応浄土真宗だけど、仏教は真理とは現世から解脱することとか言って現世研究に予算を出してくれそうにない。この2つ以外の宗教はよくわからない。

自由・平等・博愛(Liberté, Égalité, Fraternité)の博愛は友愛・同胞愛のほうがより正確な訳だそうだ。友愛自体は素晴らしい言葉だし、民主党の党首がスローガンにするのにもうってつけの言葉だ。でも首相就任前後のアレコレで妙なイメージがついてしまった感はある。

グローバルな教育を受けたエリートは得てして国際的で狭い宇宙の中に閉じこもっている。そして地元のローカルな庶民を切り捨てがち。または上から目線で画一化を押し付ける「教育」をしがち。そんなんだからドナルド・トランプみたいなのが付け入る隙を作ってしまう。