メモ帳用ブログ

色々な雑記。

キャプテン・アメリカを理解するためにはパトリオット愛国者・志士・憂国の士)とナショナリスト民族主義者・国家主義者・国粋主義者)の区別がつかなくてはいけないらしい。自分には難しい。一応、ナショナリストは否定的な意味合いで使われる場面が多く、パトリオットは肯定的な意味合いで使われることが多いそうだ。パトリオットには民族に関わらない愛国というニュアンスを持たせることもできる。
ただし、ドナルド・トランプパトリオットという言葉を濫用し、大統領選敗北後はパトリオット・パーティ(愛国者党)設立の意向がウォール・ストリート・ジャーナルに報じられるに至って(関係者は現在否定している)、最近のアメリカではパトリオットという言葉の使用にデリケートになっているそうだ。権力者に利用された言葉が胡散臭いイメージになってしまうことはありがちだ。

メリトクラシー国家のわかりやすい例が科挙をやっていた頃の中国だ。中国が近代化に出遅れた原因が科挙だけにあるとは思えないが、実態からかけ離れたエリートの再生産が社会の停滞を招いたことは確かだろう。現在でも東アジアは欧米と比べて学歴と直接関係のない分野まで学歴偏重社会な傾向があるとされる。
日本は大学に入学するのは難しくて卒業するのは簡単、欧米では大学に入学するのは難しくなくて卒業するのは簡単ではない、と聞くけど本当なんだろうか。

ただ,マッキンタイアは個人が特定のコミュニティに「埋め込まれて」いても,そのことはそのコミュニティの 「道徳的限界」を受け入れることではないと主張していることにも注意すべきである [MacIntyre1984: 221 = 1993: 271]。例えば,彼はアリストテレスの伝統に関しても,異邦人や奴隷について政治的能力を認めないことや,職人の技術を「徳」の目録に載せなかったことは批判している[MacIntyre 1984: 221-3 = 1993: 272-4]。
「共通善の政治学」 と社会契約論 (1)「リベラル-コミュニタリアン論争」 と社会契約論


まず、この本でメリトクラシーは「能力主義」と訳される。確かに日本ではそのように理解されるのが普通だ。ただ、この訳語はちょっとアメリカで感じたニュアンスとは違うな、と思っていたら、そのことは巻末の「解説」でも指摘されていた。そこでは代わりに「功績主義」が勧められている。「能力主義」というと、ある人の内部に予め備わった「潜在的な能力」が想定され、場合によると、その人のもつ才能=本質まで示唆してしまうこともある。それに対して、「功績主義」の方は、その人の才能だけでなく、運や人脈まで含めて、とにかくその人が動員できたもののすべてによって得られた結果や成果の方に焦点が当たる。

コミュニタリアニズム自由主義から生まれた中道左派の思想だ。自由だけでなく平等も重んじる。マッキンタイアやテイラーから直接の影響を受けたサンデルはメリトクラシー(功績主義)に疑問を投げかけている。サンデルはメリトクラシーにおいて両親から受け継いだ文化資本と個人の能力・努力がしばしば混同される事実を平等の観点から批判する。また生まれついての個人の資質も平等なものではない。しかし学歴を否定することは社会的はしごを否定することにも繋がりかねないという批判も出ている。

メリトクラシー (meritocracy) とは、メリット(merit、「業績、功績」)とクラシー(cracy、ギリシャ語で「支配、統治」を意味するクラトスより)を組み合わせた造語。イギリスの社会学マイケル・ヤングによる1958年の著書『Rise of the Meritocracy』にて初出した。個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力の高い者が統治する社会を指す。
もっとも、ヤングによる著書は、知能指数と努力だけですべてが決まる「メリトクラシー」を採用したディストピア的近未来を舞台とした風刺的な内容であり、最後には、傲慢で大衆の感情から遊離したエリートたちを大衆が覆すという結末になっていた。つまり、ここでの「メリトクラシー」は、軽蔑の意を含んだ語であったのである。しかし、広く使われるようになるにつれて、「生まれよりも能力を重視して統治者を選ぶシステム」という前向きな意味合いで使われるようになった。

しかしながら、このような「がんばればみんなできる」という「能力=平等主義」は、欧米諸国ではすでに1970年代前半にくずれはじめていた。学校のメリトクラシーは社会の平等化ではなく、社会的不平等や格差の再生産に寄与しているという再生産理論が唱えられるようになった(小玉1999)。日本でも、1990年代以降の高度成長の終焉、グローバリゼーションの拡大等により、メリトクラシーに国民を包含しようとするシナリオにゆらぎが見えはじめている(耳塚2007)。つまり、メリトクラシーにすべての子どもたちを包含することはもはやできないという、近代的メリトクラシーの社会統合機能に対する限界の認識が顕在化しはじめているのである。

ここではリベラル・コミュニタリアン論争時の議論と区別するため、2000年代以降、論争後に展開されているコミュニタリアニズムを応用した論考をポスト・コミュニタリアニズムと呼ぶ(1)。ポスト・コミュニタリアニズムで見られる議論には、おおむね次のような2つの流れがある。第一に、多文化主義との社会的結束(social cohesion)の関係を読み解く思想として、コミュニタリアニズムを応用する論考、第二に、コミュニタリアニズムを共和主義と読み替える論考で
ある。
ポスト・コミュニタリアニズムの展開─「リベラル・コミュニタリアン論争」以後の位相─

日本だとコミュニティ・共同体と聞くとムラ社会を連想するせいか、コミュニタリアニズムを右翼・保守主義と勘違いしている人が少なくない。だが実際は左派思想だ。自文化中心主義・エスノセントリズムでもない。アイデンティティの多層性も当初から意識されている。中道左派のリベラルでも自由至上主義リバタリアニズムでもない第三の道と言えなくもないが、ブレア首相のいう第三の道とも違う。


アラスデア・マッキンタイアコミュニタリアニズムを作り上げた哲学者の一人だ。

そのうえで筆者は、マッキンタイアの「知的探究の伝統」論が、文化的文脈重視型アプローチの人権論を根底で支える基礎理論となり得ることに注目する。つまり、文化的伝統の変化・発展について文化的文脈重視型アプローチの人権論が主張する、文化的伝統の内側における議論と文化的伝統の外側から投げ掛けられる批判を踏まえた文化横断的な対話との両者を通じた文化的伝統の変化や、ある文化的伝統における過去との一体性を維持しつつも、同時に、現代的関心に対応してその伝統に内在する問題点や矛盾を突破しあるいは超越してその伝統を再構成する過程の意味するところについて、極めて明快かつ詳細な内容を提示するのがマッキンタイアの「知的探究の伝統」論であり、その核となるのが、競争し対抗している両立不可能な二つの伝統が相互に対決している場合の対応として「伝統構成的探究」に基づく解決法を提示する彼の伝統間比較論だ、というわけである。したがって、文化的文脈重視型アプローチの人権論が採用する議論の進め方に基づいて文化的伝統の変化・発展を論じる場合、その具体的な進め方を詳細かつ明確に提示するマッキンタイアの伝統間比較論が大いに参考となることが明らかにされた。
ハイエクの伝統論の再構成―日本文化のなかでの自由社会の擁護―

日本の伝統文化の特徴とされているものを、マッキンタイアのいう「小さな共同体」の「厚い伝統」の特徴と解釈すると、日本文化に適合的な自由社会擁護論の探求は困難ということになる。しかしハイエクのいう異質性・多様性を前提とする「大きな共同体」の「薄い伝統」、つまり「行為ルール」の特徴と解釈すると、別の結論を導き出せる可能性がある。著者は、日本という国家あるいは政府は消極的自由には取り組むべきだが積極的自由には取り組むべきでないと結論付けた。

政治経済は一般教養の講義で取って以来纏まった基礎の学習を疎かにしていたので、この機に纏まった基礎の新しい本を何冊か読んでみた。
自由・平等・博愛はフランス革命のスローガンであり、近代思想を代表する言葉だ。だが自由と平等には両立が難しい部分がある。そのためどの分野ではどちらかを優先するかに政策の特徴が出る。
まず、大まかには左翼が平等重視で右翼が自由重視とされる。日本人には感覚的にわかりにくい。だが英米からするといかにもしっくりくるのだろう。経済学者・哲学者のハイエクは、通常では極右に分類されるファシズムも、共産主義と同様に全体主義であり左翼だと位置づけた。ハイエクは1930年にオーストリアからイギリスへ移住し、そののちにはアメリカに移住する。
一方、西欧・北欧ではフランス革命以来労働者の権利を重んじる気風がある。左派の社会民主主義政党の勢力も強い。平等が必ずしも全体主義と結びつくものではないという意識がある。
マイノリティ政策では、個人がマイノリティとしてのライフスタイルを送る自由を保障するように求めるのが右で、マイノリティがマジョリティと平等になるための政策を求めるのが左だ。
自由主義は本来の意味では政府の介入を最小限に抑えようとする思想だ。だが1929年を皮切りに大恐慌が起きた際、アメリカでは民主党が社会経済政策によって問題を乗り越えた。この改革により自由主義という国家の理念が守られると主張し、社会主義的あるいは集産主義的政策との批判を跳ね除ける。1930年代のアメリカでは大恐慌の克服が待望されていた。それを政策として叶えたのが1933年に始まるニューディール政策であり、理論として完成させたのが1936年にケインズの発表した『雇用・利子および貨幣の一般理論』だ。以来アメリカにおいて自由主義政党=リベラル政党は公共事業や福祉に力を入れる中道左派政党として認識されるようになる。この中道左派リベラリズムを他のリベラリズムと特に区別する場合はモダンリベラリズム、ニューリベラリズム、ソーシャルリベラリズムなどと呼ぶ。第二次世界大戦後の勝利を経て、ケインズ主義の正当性は揺るぎないものされた。欧米では福祉や労働者政策に積極的に取り組む中道左派が大きな力を持った。
しかし1960年代末の景気悪化で、ケインズ主義は求心力を失っていく。
代わって1980年代から表舞台に立つのがハイエクらの唱えた古典的自由主義 (クラシカルリベラリズム)や、古典的自由主義を手本とするネオリベラリズムリバタリアニズムだ。新自由主義政策をアメリカにおいて推し進めたレーガン大統領は保守主義者であり、イギリスにおいて推し進めたサッチャー首相は新保守主義者である。サッチャーハイエクを信奉していたことはよく知られている。
ハイエクは無知な人間が設計主義的合理主義で市場を制御しようとするよりも、市場の自生的秩序とその進化に任せたほうが社会は正常に働くとした。市民一人一人の知恵が有効に活用されるためにも、市民一人一人が活動にふさわしい生活を送るためにも、自由な市場こそが不可欠だと考えた。ハイエクは所得格差を職業に対する社会の需要の指標として是認した。一方、強制保険と最低限の公的扶助は必要だともした。
1990年代後半にはアメリカとイギリスで政権がリベラル政党に交代する。どちらも新自由主義政策と政権本来の手厚い福祉政策の両立を図ることを公約にした。イギリスのブレア首相は第三の道というスローガンを掲げる。しかし政策内容は新自由主義路線を色濃く継承していた。
近年の英米を主導し続けた新自由主義だったが、2008年のリーマンショック以降見直しが迫られている。リーマンショックの背景には新自由主義的金融政策とグローバリズムがあった。

最近の漫画の単行本はよく巻末に「収録されている表現は、作品の執筆年代・執筆された状況を考慮し、コミックス発売当時のまま掲載しています」と掲載されてる。日本国内の社会通念と表現の問題についてはほとんどこれで対応できるはずだ。
海外に輸出する際にはその国の社会通念と衝突する場合があるのもわかる。その国特有のローカライズが最低限行われるのは仕方ない。でもなるべく元の表現には手を付けないでほしいし、警告文や年齢制限で対応してほしい。下手に年齢制限が付くと商売的な障害になる場合もあるから商売的な判断としてはジレンマを迫られるんだろうけど。
日本で制作する際に、最初から世界中で年齢制限なしで通用する基準、つまり世界一厳しい基準を意識すらるものばかりになってしまえばつまらない。フィクションに関して自分は、国境をなく世界と繋がるグローバルやコスモポリタンよりも、国境がある上で超えていくインターナショナル派だ。エンタメでマクドナルド化を目指すものがあっても構わないけど、そればかりになれば逆に自由がない。
合理主義は全体主義であり、自由主義とは反合理主義であるというのは、リバタリアニズムの旗手であるフリードリヒ・ハイエクでさえ示唆していた。
ハイエク国家主義国家や共産主義国家の行う計画経済を批判する学説を多数発表する。1974年にノーベル経済学賞を受賞。その学説は、当時は古典的自由主義の立場から主張され、今日ではリバタリアニズムの立場から解釈される。ハイエクは自生的秩序である慣行・慣習・マナーを重んじ、人工的な合理主義を批判した。一方で、部族社会へ人工的に回帰しようとする動きも批判した。この点は、自然発生的な共同体の共通善を重んじながらも、共通善を自覚的反省や他の共同体との対話・競争によって改善することを命題とする現代のコミュニタリアニズムとは明確に異なる。
ハイエクの時代は民間のインターネットが未発達で、グローバル資本主義も発展途上だった。彼はグローバル資本主義が世界を席巻し、合理主義的な企業が世界経済を支配するような自由を想定していただろうか。
現代の資本主義国家において、フィクションの表現を規制する圧力は国家権力からグローバル企業としての合理的な無難さに移りつつある。国家を超えた経済規模を持つ企業が不十分な知性に基づいて合理的・計画的にフィクションの生産をコントロールしようとしている。フィクションの自由のためには、自生的秩序や反合理主義を再評価せざるを得ない時が来ているのかもしれない。

秘曲笑傲江湖の林平之が家族を皆殺しにされた口実も復讐だった。酒場で少女に絡んでいた男を林平之は弾みで殺してしまった。その男がとある武門の総帥の息子だったのだ。林平之は明らかに過剰な復讐によって父の部下を含めた家人全員を失った。しかもこれは仕組まれた陰謀だった。林平之は自らも復讐の鬼となってしまい、悲惨な末路をたどる。