メモ帳用ブログ

色々な雑記。

セカイ系は主人公がセカイであるヒロインから盲愛されていることで成り立つジャンルだけど、そういう意味だと最近の新海監督映画では天気の子すらセカイ系ではない。陽菜は帆高だけのために人柱になろうとしたのでも、帆高だけのために人柱をやめようとしたのでもない。陽菜は帆高はもちろん、凪や、夏美や、須賀や、萌花や、今までのお客さんたちや、世の中のみんなのことが好きだった。だから人柱になろうとしたし、だから生きたいとも思った。帆高が陽菜のことを本当に理解できたのは陽菜が帆高の手を握った瞬間でなく、陽菜が雨の降り止まない東京のために祈っているのを見た瞬間だ。手を握った瞬間の帆高は世界で一番大切な人だっただろうけど、帆高だけが陽菜の世界なのではない。それは帆高も同じだ。帆高も、陽菜も、自分たちだけで救うことを諦めた世界を、それでも愛しているからこの世界で生きようと思った。

新海監督はよくNTR好きとか言われるけど、本当の好みは、実を結ぶ恋にはならなかったけどあの時に思い合った相手がいたからこれからも前を向いて生きていける、って部分っぽい。セカイ系の代表的作家ではあったけど、恋の幻覚の終わりや自身の有限性の受容に興味が向いている。
新海監督が好きな要素を詰め込んでいて一番お気に入りだという言の葉の庭がストレートにそういう内容。
代表作の1つである秒速5センチメートルも新海監督はエールのつもりで作っている。
インタビューを読む限りだと天気の子もそっち系のつもりらしい。初恋は本物の恋ではないと言ったりする意味での初恋というか、生々しさの全く伴わない幼い恋だからこその良さみたいなの。

エヴァは少年を主人公にして一応少年をターゲットにし、リアルタイムを語ろうとするアニメだったけど、セカイ系は少年を主人公にしてノスタルジーを掻き立てる作品群だと感じているんだけど、どうだろう。セカイ系の火付け役になった最終兵器彼女からして掲載誌は青年誌だ。そして童心に帰り主人公とともに少年の目線で世界を捉えるというよりも、少年ではなくなった目線のままあの時無垢で無力だったぼくを懐かしむような色彩が強い。もう全てが取り返しがつかなくなったことを知った人間が、まだそれを知らない頃のぼくを見ている。かつて負った傷の痛みを、またほじくり返して浸るために。一応少年向けのレーベルから出ている作品でも、主題となっているのは前進ではなく少年期の終焉であり、終焉から目を背けることの終焉だ。
痛みはもはや遠くなってしまったものだからこそ甘い。また、受け手がいい大人になっているか、なるからこそ、楽しめていることが期待されている作品群でもある。この遠さは少年のぼくと大人のぼくの距離だ。取り戻せない過去に対する埋まらない距離が埋まったような一瞬の錯覚をするために、大人になったぼくたちはこうした作品を求める。また、この距離は少年のぼくと彼女の距離でもあった。彼方に立つ彼女との距離が消える一瞬の錯覚をぼくたちは追い求める。その瞬間、ぼくの恋心は永遠へと到達し、セカイへ届く。届かなかったから夢が見られる。
ただこの手の後ろ髪を引かれる切なさを描いた作品は、その場に永遠に留まりたがる受け手を生んでしまいがちだったり、生んでしまう点が批判されがちだったりもする。思春期を主題にした作品はエモーションと共感(他者への理解であるシンパシーではなく同類への同調であるエンパシーのほう)に全振りになるから好みが分かれやすいというのもあって、賛否が分かれる。

蜜柑 on Twitter: "すずめの戸締まり ティーチイン舞台挨拶 グランドシネマサンシャイン 池袋 自分用メモ✍️ (あくまで自分用なので、誤字脱字あるかと思いますがあしからず💦) 本日も参加させていただきました...!! 監督が質問に答えてくださるスペースも検討してくださっているとのこと...!! https://t.co/hkTL5TIth5" / Twitter
このティーチインからすると

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これで現実(現実でない)を確認できるはず。