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全体主義は論理的だが合理的ではないという話。
『全体主義の起源』について 五〇年代のアーレント政治思想の展開と転回

(33)アーレントは五三年のカンファレンスで、全体主義イデオロギー支配を“ideocracy”と定義するW・ギュリアンの報告についてのコメントの中で、ギュリアンの定義に基本的に賛意を表明しつつ、ideocracyに代えて“logiocracy”という定義を提案している。観念 (idea)の内容による支配ではなく、観念を展開する論理 (logic)の一貫性こそが全体主義イデオロギーの特質だからである (Friedrich (ed.),ibid.,134)。

全体主義は、伝統的な暴政とは全く異なるやり方で道徳を破壊する。この洞察がアーレントをして一〇年に及ぶ全体主義研究へと赴かせたのであるが、その始まりに位置するのは、四三年に知ったナチス絶滅収容所の衝撃である。のちにアーレントはこう述懐している――「最初、私たちはそれを信じませんでした。…というのも、そんなことはあらゆる軍事的な必要性や必然性に反していたからです。夫〔H・ブリュッヒャー〕は元々軍事史が専門でしたから、そういうことには通じていたのです。彼は言いました、そんな話を信じては駄目だ。そんなことできない筈だ、と」。

アーレントはのちに『起源』第三部の中でほぼ同じ叙述を行うが、そこでは「ヒトラーのような倒錯した狂信者」をはじめとする初期のナチス運動を牽引した指導者たちと、政敵を排除してナチスの支配が磐石となった後にヒムラーが組織した行政的殺人機構の「歯車として行為」した「勤め人」たちとに、それぞれ「モッブ mob」と「大衆 the mass」という対照的な人間類型を与えている (OT: 337f)。両者は共に私的な欲求の充足のみを行動原理とする近代ブルジョワのいわば「なれの果て」であるが、「モッブ」の特徴が、自らの欲望に衝き動かされて暴力の行使をも厭わずに最終的には自らを産み出したブルジョワ社会そのものを粉砕してしまうような、抑制を失ったその利己性 selfisfnessにあるのに対して、「大衆」は、あらゆる関係性からの絶望的な孤絶 lonelinessの中で自己を失い selfless、ただ与えられた職務 jobをこなして私生活の安全を確保しようとするだけの受動的な個人である (OT: 316)。

近代的個人の抑制を失った利己性の膨張とそれに伴う能動的な暴力の行使に、この時期のアーレントは近代の破局の原因、のみならずナチスの絶滅政策の動因をも見出していた。利己的欲求の権化として、モッブは伝統的に暴君と呼ばれて来た人間類型に等しい。しかし彼らが複数で存在するが故に、万人に対する一者の支配ではなく、万人の万人に対する闘争が発生し、拡大してゆく。彼らは際限なく共通世界を破壊し続け、それによって一層自らを根無しに追いやりながら、遂には自己自身の破壊を運動の終着点と看倣し、自滅に魅了されてゆく――こうした虚無的でデモーニッシュな人間像が、四〇年代半ばのアーレントの思考様式をも支配していたことは、四六年の「実存哲学とは何か?」にも明瞭である。帝国主義論におけるホッブズの役回りを演じるのは、同論文では、「死への先駆」という「個体化の原理」を通じて「自己」を回復しようとする絶望的な決断主義を唱道したハイデガーである。自己の実存を自ら根拠付けようとする『存在と時間』の企投のシェーマにアーレントが看取するのは、世界喪失という事態に対して世界の主人となることで応えようとする「近代の傲慢 modern hubris」の帰結にほかならない。その傲慢なる自己は、しかし死という無に基礎付けられているのみであり、他者と共存する世界に何かを創造することはできない。為し得ることは、共通世界の否定と破壊のみである。四六年のアーレントにとって、ハイデガーの実存哲学は、いわば近代の「自殺への道」の哲学的表現なのである。旧来の秩序や道徳を露なく踏み越えてゆくモッブたちの能動的なニヒリズムに、ハイデガーを含めた多くの知識人たちが魅了された所以である (OT: 333ff)。――しかしながら、斯かる倣岸な個人は、行政的殺人機構の一機能に徹することができるのだろうか?

イェルサレムアイヒマン』でアーレントが示した「悪の凡庸さ banality of evil」という概念が「アイヒマンが何も考えずに命令に従ったという神話」を作り出したとするなら、そのような神話は解体されねばならない。親衛隊中佐アイヒマンは、一般的な意味で――「思考すること thinking」という語のアーレント独特の含意をさしあたり措けば――「何も考えずに」上意下達式に課せられた指令に従ったわけではないし、まして「ロボットのように」感情を交えず執行する行政機構の「小さな歯車 small cog」ではなかった。彼は国家の指令に従っただけの「歯車」に過ぎない、とはイェルサレムの法廷での彼の弁護人の主張であり、アーレントのそれではない (EJ: 57)。アイヒマンは様々な考慮を行いながら最良の解決策を導き出す知的能力を備えていたし、特に部局の長としての「組織をつくる organize」能力、また関係者と「交渉する negotiate」能力の高さを自負していた (44f)。誇り高き専門家として彼が嫌悪したのは、知識や能力を欠きながら業務に容啄してくる新参者、あるいは私腹を肥やすために職務を私物化する同僚たちであり (72f)、必要なら組織の長たるヒムラーとの衝突をも厭わなかった (138ff)。彼はまた、銃殺やガス殺の現場を見て恐怖する人間的な感情を持ち (87ff)、ときには自発的にユダヤ人を救おうと試みる「良心」をも備えていた(94f)。彼は自ら感じ、考え、極めて能動的に行動したのであり、従順な歯車でも感情を欠いたロボットでもなかった。にもかかわらず、アイヒマンは「総統の意志」に対しては、それがあたかも定言命法であるかのように、最後まで忠実であろうとしたのである。アーレントによれば、イデオロギー的狂信のゆえではない――「働く喜びarbeitsfreude」のためである。