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鯉登の経歴のおさらい。
要点は、日露戦争勃発→日露戦争終結→所属する聯隊(原隊)決定でなく、日露戦争勃発→所属する聯隊(原隊)決定→日露戦争終結であること。
ゴールデンカムイ展の図録によれば、鯉登の経歴は時代考証の人の監修が入っているそうだ。細かい描写まではチェックしていないかもしれないが大枠はちゃんとしているはずだ。
誕生日はファンブックによれば「1886年頃」かつ「12月23日」。何も考えなれけば1886年の12月23日かなと言う感じだけど、ファンブック記載の鶴見との出会いの年や誘拐事件の年を考えると1885年の12月23日でないと整合性が取れない。後者でも1886年「頃」だ。
ファンブックによればゴールデンカムイは連載開始時点が1907年2月だ。これと鯉登の誕生日をあわせて考えると、鯉登が陸軍士官学校を受験したのは1904年4月で合格発表は8月である場合(第18期)と、1905年4月受験で合格発表は8月である場合(第19期)が考えられる。
鯉登の合格後、親子揃って旭川の鶴見に挨拶しており、鶴見はまだ顔に傷を負っていない。第七師団は1904年11月から満州に出征するので、鯉登が第18期であることが確定する。
当時の陸軍士官学校日露戦争のため、隊付勤務(1年)→陸軍士官学校(1年7ヶ月)という通常のカリキュラムが短縮されて、陸軍士官学校(1年)のみになっている。鯉登は1904年12月に陸軍士官学校に入校し、この時点で所属する聯隊(原隊)が決定。1905年9月に日露戦争終結。1905年11月に卒業。そのまま原隊である第七師団歩兵第27聯隊に見習士官(曹長)として入隊。1906年6月頃に見習いを終えて少尉。
これがファンブックや作中の描写と最も矛盾が少ない経歴になるはずだ。1906年6月に少尉になっているのに1907年でも新任少尉扱いされているのくらいは許容範囲だろう。どうしても気になるなら、日露戦争陸軍士官学校入校の日程は動かしにくいとして、ゴールデンカムイの世界では入学後のカリキュラムがほとんど短縮されなかった(1年7ヶ月)というふうに脳内補完してもいいかもしれない。