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新海監督曰く、廃墟が草に覆われ、自然に返るところから、閉じ師の仕事と関連付けて、草太を草太という名前にしたそうだ。
mimi@実況とかレポとか on Twitter: "すずめの戸締まり ティーチイン 1/14 鳥取 すずめの名前の由来は出尽くしてるかもだけど、草太の名前の由来(?)は初めて聞いたので... #すずめの戸締まり https://t.co/nqH06OUevU" / Twitter


すずめの戸締まりでの自然=神=非人間という描かれ方、特に植物の描かれ方を踏まえると中々に興味深い名付けだ。
新海誠本によると、新海監督は東京大震災の春も桜が咲いたことに驚いたという。何があろうと日々は続くのだと慰められたと同時に、どこまでも人間に無関心な自然の冷徹さを感じた。そうした桜の冷徹な美しさは天気の子では水没した東京で咲く桜を描く時に意識していたそうだ。独特の感受性であり、それを知ることは新海作品を考える上での大きな手かがりになる。
また、コロナ禍の人がいなくなった東京で咲く桜にも同様の思いを抱いたと語る。「コロナ禍で咲く桜」は芹澤本でも印象的に描写されている。
そして、新海監督は草太について神様と人間の融合体のようなイメージを持っていると度々語る。そうすると、草太という名前はなおさらに興味深い。草太は神の領域(常世、神の下である自然に返された土地、草に覆われた土地、死)と人の領域(現世、人間の暮らしている場所、整備の行き届いた場所、生)を繋ぐべく、神の領域に属する者の名を授けられた人間、ということなのだろうか。


ところで天気の子を見た時、何年も雨が降り続いていたら桜の木は死んでて咲かないんじゃないと思ったけど、新海誠本を読んでちょっと腑に落ちた。天気の子の雨は具体的な雨というよりも災害やそれが避けようもないことやそれによる将来の滅びも甘受しなければいけないことのメタファーみたいなもので、桜は人の社会が滅びようが変わらない自然のメタファーみたいなものということらしい。でも災害が続けば普通に自然環境は破壊されるなあ。人間もそれ以外の生物も等しく相互作用を及ぼしあった結果生まれるのが環境であり広義の自然、ということに科学的にはなっている。人間が開発の結果環境や他の生き物にダメージを与えて不安定にし、最終的には相当の部分を滅びの道連れにしてしまうというよりは、思い上がった人間が神である自然に見放されて災害が起きる、みたいなのが新海監督の世界観なのかな。