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福島での芹澤の


「綺麗なところ」という発言の意味合いについては、新海監督が芹澤本のあとがきで述べている。曰く、当事者でなく、観客である我々に最も近しいからこそ、芹澤はあの風景を「綺麗」だという役割を与えられたのだという。それと同時に芹澤の善良さや健気さは得難い資質でもあるという。
またこの発言を考えるにあたって新海監督が2月のスペースで興味深い発言をしている。


映画『すずめの戸締まり』公式 on Twitter: "『#すずめの戸締まり』 🎊累計動員数1000万人突破🎊 \\\感謝お返し申す/// ⚡ Twitter Spaces開催決定!⚡️ ⏰2月10日(金) 21:00~ #新海誠監督 からのスペシャルな メッセージをお届けします✉️! ※アーカイブも残ります 📝ぜひリマインダーを設定して下さい https://t.co/UhQxi58B1T" / Twitter


1:26:30~1:32:00の新海監督にとっての自然の良さという話題の部分だ。
新海監督は自然の美しさにもいくつか種類があると考えており、例えば里山のような人間と自然の共同作業で形作られた安心する風景と、星空や砂漠や大海原のような、残酷で鋭利な自然そのもので、人間と相容れない、だけど激しく美しい風景があると語った。そして災害後の風景、その残酷だけど本能的に惹かれてしまう美しさはどちらかというと後者に類するものだと考えているそうだ。
鈴芽は、里山に近い人と自然の作り上げてきた美しさの中で旅するだけでなく、災害というむき出しの自然の美しさと向き合ってしまってもいて、そのため『すずめの戸締り』の背景美術は徹底的に美しくある必要があったという。
この話を聞いて、自分は作中における後者の自然の代表が常世だったのだと感じた。「常世は美しいが、死者の場所だ」と作中で宗像老人は語った。人生は人為であり、死は自然だ。
『すずめの戸締り』は場所を悼む物語であり、周囲の死を受け入れて前に進む物語でもある。鈴芽は母の形見である椅子に閉じ込められた青年とともに旅をし、終わってしまった「場所」の死を受け入れて土地を神々に返すという仕事に協力した。そして最後は自分の母親の死を受け入れ、自分の故郷の死を受け入れた。12年間ずっとすずめの胸の中で燃えていた故郷は悼まれ、土へ還り、草に覆い隠された。芹澤が「綺麗」と語った風景とそっくりな風景になった。
芹澤の「綺麗」という言葉がすずめにとってあまりに残酷だったのは、それが人の住む場所としての死を突き付ける言葉だったからだ。人間の住む場所が自然に圧殺されてしまった風景、それは紛れもなく美しく、残酷だ。そして変えようのない現実だ。いずれその土地に新たな生活の場ができるとしても、それは以前死んでしまった「場所」とは別の場所だ。芹澤は当事者ではなく観客である我々に最も近しいからこそ、他意なく現実をそのまま言葉にしてしまった。
芹澤は物語の中盤に、それまでの鈴芽の思い込みを覆す役割を担って登場する。芹澤との出会いによって鈴芽は自分が草太のすべてを知っているわけではないことを今更ながらに思い知る。そして芹澤の「綺麗」という言葉により、震災で東北の人里が、故郷という「場所」が、死を迎えてしまったことを今更ながらに突き付けられる。だから鈴芽はなかなか芹澤に心を開けなかった。だが鈴芽は常世でどちらの現実も受け入れた。そして東北から東京までの帰り道ではすっかり芹澤と打ち解けた。