メモ帳用ブログ

色々な雑記。

ダ・ヴィンチのインタビューで新海監督は小説『美しい顔』を高く評価していた。内容はもちろん、被災者ではない作者が震災を描こうと試みたという点でも。新海監督は『すずめの戸締まり』で自らも被災者ではない人間ながら震災を題材にし、しかもエンターテインメントとして仕上げる覚悟をした。「今回、震災を取り巻くさまざまなタブーめいたものを、少し取り払うような仕事ができたのかなと思っています」と語る。
『美しい顔』についてのレビューで、新海監督も『すずめの戸締まり』で目指していただろうテーマと重なる文章を見つけた。色々な意見の出るテーマだけど、他のインタビューを読む限りでも新海監督のスタンスはこれに近いんだろうなと。

被災地・被災者を厳密に、限定的に考えれば考えるほど、その範囲は狭くなる。そしてそのことは問題の意識を先鋭にするかもしれないが、逆に副作用として問題のあり方を固定的にし、関係の及ぶ範囲を狭め、はては問題そのものを外部から見えにくくしていってしまう。

心理的な悪影響もある。「当事者」性を強調すればするほど、「非・当事者」を遠ざける効果を生む。被災の苦しみは「当事者」にしかわからない、喪失の悲しみは「当事者」にしかわからない、ということが強調され、「当事者」とその身近な者たちだけが発言の権利を持つような雰囲気が支配的になったらどうなるか。「関係のない者」「距離を感じた者」たちは、身を引き離し、問題の周囲から遠ざかっていくだろう。あるいは遠ざからないまでも、ひたすら聞く側、受け取る側の受動的姿勢を取り始めるだろう。

ここで起こるのは、分断である。本来、手を結ぶべき当事者と非当事者が、「当事者性」の過度の強調により、かえって疎遠になっていく。それはとても残念なことだし、それどころか現実的な不利益や、支援活動の弱体化までも生んでしまうだろう。

当事者と、非当事者は、二項対立的にすっぱりと分かれるべきではないし、そうあるものではない。当事者と非当事者は、苦しみや痛みを、分かち持つ(分有する)ことができる。何かのきっかけで接点が設けられたとき、その接点を通じて、共有しうる互いの地盤が開かれることがある。分断は、だから固定的ではありえない。当事者と非当事者の間には、分断ではなく、可変的な「関わり」の濃度の差がグラデーション状に広がっていると考えた時、被災と非・被災に単純に分割する思考がほどけはじめる。